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古今の英雄をご紹介


大國主命<ookuninushinomikoto>
□島根県出雲市大社町杵築東 出雲大社
□大むかし
□出雲系神話の主神  スサノオノミコトの子孫(子という説もある)

兄たちとイナバノヤカミヒメを争って求婚に成功。その結果、兄たちから恨みをかい、様々な危機にあう。母神のすすめでスサノウの住む根の国にゆき、多くの試練をうけたのちスサノウの娘スセリヒメと結婚し、国土の王者大國主命になるという。高志のヌナカワヒメを妻問いした神話は有名だ。小人の神スクナヒコナとともに国土を造り固めたと伝えられる。神話上に国土創造神として位置づけられ、地上である葦原中つ国を支配したという。
アマテラスの孫ニニギを地上に降ろすにあたり、高天原の使者タケミガヅチらと交渉し、国土を天つ神にゆずって(国ゆずり)隠退し、杵築の出雲大社にまつられた。
photo:ばつまるさん
安徳天皇<antoku-tennno>
□山口県下関市 赤間神社
□治承2−文治1(1178-85)
□高倉天皇の第一皇子 母は平清盛の娘建礼門院徳子

平氏政権の凋落期にわずか2歳で即位。寿永2(1183)7月源義仲の入京により、平宗盛に擁せられ西国に落ちる。翌8月大宰府に入り、後讃岐の屋島に移ったが、源義経らに追われ、'85年3月壇ノ浦において平氏一門とともに入水。ときに7歳であった。
このとき、三種の神器の内の剣が海底に沈み失われたという。

平時子(二位尼)<tokiko-taira>
□山口県下関市 壇ノ浦古戦場
□?−文治1(?-85)
□平清盛の妻 父=平時信 母=大膳大夫藤原家範の娘

清盛に嫁して、宗盛・知盛・重衡・徳子を生んだ。治承4(1180)准三后に任ぜられる。養和1('81)清盛が没すると出家し、従二位に叙せられたので「二位尼」と呼ばれる。文治1('85)壇ノ浦では安徳天皇を抱いて入水。
photo:ばつまるさん
一遍<ippen>
□埼玉県川越市上戸 常楽寺 河越館
□延応1−正応2(1239-89)
□鎌倉時代の僧・時宗の開祖

伊予国の豪族河野道広の子。(河野氏の城...龍王城
はじめ延暦寺で天台宗、のちに浄土教を修め大宰府に至り、西山派の祖証空の弟子聖逹に念仏の奥義を受ける。文永8(1271)東国を巡り信濃国善光寺に詣で数日参籠。善導大師の二河白道の図一幅を写し、伊予国に帰り窪寺に一小庵を営み、念仏修行3年にして、'73念仏の奥義を習得し、衆生を済度するために諸国の霊場を参籠遊行し、伊予国菅生の岩屋、豊前国宇佐八幡宮、摂津国大坂の四天王寺、山城国男山の八幡宮に参籠。建治1('75)12月紀伊国熊野権現に参籠百日を期し、感得するところがあり自ら一遍と号する。
'76勧進帳念仏札を携えて諸国遊行の途につく。念仏札には南無阿弥陀仏決定往生60万人と記し、九州・四国・京を廻り、また信濃・武蔵・上野・陸奥・常陸・伊豆・相模など全国をくまなく行化し、念仏札を授け、勧進帳に名を記す者250万1724人に及んだという。正応2('89)兵庫で最後の法談を開き、所持していた書籍を焼き、8月23日没した。
photo:あられ
足利尊氏<takauji ashikaga>
□栃木県足利市昌平町 足利学校 足利氏館 近く
□嘉元3−正平13・延文3(1305-58)
□清和源氏足利流の惣領

足利氏の祖は源義家の孫義康で、家柄からいえば新田氏より低いものの、代々の婚姻関係で有力な勢力を保っていた。
元弘1・元徳3(1331)家督を継ぐ。
元弘3・正慶2('33) 元弘の乱(討幕をめざず後醍醐天皇が隠岐島から脱出し、反北条氏の勢力が蜂起した)で鎌倉幕府方の一方の大将として西上し、丹波国篠村八幡宮で叛旗を挙げ、六波羅探題を滅ぼす。このことで建武政権から勲功第一とされ、参議従三位に叙せられ、後醍醐天皇(諱尊治)の一字を受けて幼名の「春王丸」から「尊氏」へと改名。相模・伊豆を知行国として与えられ、武蔵守となる。
建武2('35)武家政権再興を志し、北条時行の乱をきっかけに鎌倉に下って箱根竹ノ下に新田義貞を破って入都。敗れて九州に下ったが、筑後国多々良浜で菊池武敏を破り、勢力を挽回し、兵庫湊川に楠木正成を倒して再び入京。
延元1・建武3('36)光明天皇を擁立、つづいて建武式目を定め幕府を開き、延元3・暦応1('38)征夷大将軍となる。以後、吉野の南朝と戦い続けたが、正平5・観応1('50)頃から弟直義と対立、翌年窮地におち一時南朝に降る。
正平7・文和1('52)関東に下った直義を追討してこれを鎌倉に毒殺、さらに反転して中国・九州に勢力をふるう直義の子直冬を討とうとしたが正平13('58)病没。
尊氏の死後も内紛は続き、室町幕府が安定するにはさらに10年の歳月が必要だった。
photo:あられ
大内弘世<hiroyo-oouchi>
□山口県山口市 瑠璃光寺 大内館 築山館
□?−天授6・康暦2(?-1380)
□南北朝時代の武将 大内弘幸の子

はじめ一族の内紛で南朝方に属したり、観応の擾乱には足利直義・直冬党であったが、正平9・文和3(1354ごろ)周防をおさえ、ついで長門守護厚東氏を討ち、防長2国を統一した。正平18・貞治2('63)ごろ足利幕府に降り、周防・長門・石見の守護職に補される。この間、拠点を従来の国衙に近い大内村から裏日本への進出に便利な山口に移し、京都を模した町づくりを進め、山口文化の素地をつくり、瀬戸内海沿岸の倭寇を支配し、大内氏の繁栄の基礎を築いた。
photo:ばつまるさん
太田道灌<doukan oota>
□東京都千代田区 東京国際フォーラム(上)埼玉県川越市 市役所前(下) 江戸城 川越城
□永享4−文明18(1432-86)
□室町後期の武将

上杉(扇谷)定正の執事の子として生まれ、幼い頃鎌倉五山のある寺で学問を学んだ。長じて古河公方足利氏と対立する上杉氏を助けて戦う。
長禄1(1457)江戸城を築いてこれに拠る。江戸城はその昔、武蔵七党のひとつである秩父党の江戸重継によって築かれたが、簡単な土塁と空掘をめぐらした板葺きの粗末な屋形程度のものだった。道灌はそれを戦国の世に耐えるよう、堀を深くし、3つの郭からなる堅固な城に造りかえた。
文明8('76)上杉(山内)顕定の家臣長尾春景の乱では武蔵・相模・下総に春景と戦って、扇谷上杉氏の勢力を強めた。のち山内・扇谷両上杉氏間の対立があらわになると、顕定は扇谷家の勢力増大を抑えるため、定正の家臣を通じて道灌を讒し、ために道灌は相模国大住郡糟谷で定正に殺された。道灌の活躍で上杉家の勢力が強まったということで主君の定正が道灌に嫉妬心をいだいたことがそもそもの要因とされる。
古今の兵書を読み、世に<軍法師範>と称され、とくに<足軽の軍法>を得意としたといわれる。また歌道を志した。
photo:あられ
尼子経久<tsunehisa amago>
□島根県安来市広瀬町広瀬 飯梨川沿い 月山冨田城
□長禄2−天文10(1458-1541)
□室町後期・戦国時代の武将

出雲・隠岐両国で守護代として守護の京極政経を助け、その後自立して領地を支配するようになった。永正5(1508)大内義興とともに前将軍足利義植を奉じ上洛、将軍義澄や細川澄元と戦う。諸将よりはやく帰国すると、こんどは義興に対抗するため義澄と結び、山名氏の衰退をチャンスとばかりに因幡・伯耆を奪取。吉川・毛利といった安芸の国人を従い安芸国の支配を図った。'18義興が京から戻ると安芸・石見を舞台に戦闘は激化し、大永1('21)一旦和議となるが翌年には安芸守護武田光和の銀山城で義興の軍と対峙。'24にはふたたび和議。'26義興の石見侵攻に対抗したが三隅城を失う。天文6('37)毛利元就に叛かれ、孫の晴久に郡山城を攻撃させたが失敗。以後の対毛利戦は晴久に受け継がれた。
photo:ばつまるさん(上)
photo:たかしPart3さん(下)
大内義興<yoshioki-oouchi>
□山口県山口市 龍福寺
□文明9−享禄1(1477-1528)
□室町後期の武将 大内政弘の子

明応3(1494)家督をついで周防権介となり、周防・長門・豊前・筑前・安芸・石見の守護を兼ね、従三位左京大夫に叙任される。'99前将軍足利義植が細川政元に京都を追われたとき、これを山口に迎えて保護する。永正5(1508)義植を擁して上洛し、将軍足利義澄を追って義植を将軍に復職させ、自らは管領代となって以後10年間、直接幕政に参与する。また山城守護も兼ねる。'18帰国。大永1('21)以後、安芸国に出兵して尼子経久らと戦ったが、享禄1('28)陣中で病に倒れ、山口に帰って没した。
対外貿易に関心を示し、'16将軍義植から遣明船派遣の権利を与えられた。
photo:ばつまるさん
明智光秀<mitsuhide akechi>
□滋賀県大津市下阪本町城畔 坂本城
□大永6−天正10(1526-82)
□戦国・安土桃山時代の武将

土岐氏の支族と伝えられる明智光綱の子。若いころ諸国を遍歴。永禄1(1558)織田信長に仕え殊遇を受ける。元亀2('71)近江坂本城主。天正3('75)信長より惟任(koretou)姓を受ける。'77以後丹波攻略に従事。'79八上城主波多野秀治と母を交換して和睦したが、信長が秀治を殺したので光秀の母も殺され、信長を深く恨むようになったという。
'82羽柴秀吉の中国征伐援軍を命ぜられたが、6月丹波国亀山※亀山城から京都本願寺の信長を急襲し自殺させた。細川忠興・筒井順慶らを誘い天下人になることを策したが成功せず、中国から急ぎ戻った秀吉と山崎で戦い、大敗して坂本へ落ちる途中、小栗栖の農民に竹槍で刺し殺された。
photo:ばつまるさん
大友宗麟<sourin ootomo>
□大分県大分市 大分駅前 府内城
□享禄3−天正15(1530-87)
□戦国時代の武将・キリシタン大名

源頼朝以来、豊後・筑後・肥後を支配する名家に生まれ、天文19(1550)21歳で家督を継ぐ。以後、毛利氏・龍道寺氏らと戦い九州に勢威をふるう。'63豊後国臼杵丹生島(にうじま)に臼杵城を造り居城とした。
'68毛利氏に内応した立花鑑載を滅ぼしたが毛利氏との戦は絶えず、元亀2('71)将軍足利義昭の周旋でようやく和議が成立、のちに九州探題職を得て大々名の地位を固めた。九州の覇権を争う相手は島津氏のみとなる。
天正6('74)49歳のときキリスト教に入信。洗礼名をフランシスコという。相続直後から領内に教会を建てキリスト教を保護し、ポルトガル船や明船と交易を行い、山口に滞在していたザビエルを招いたり、'82には有馬晴信・大村純忠とともにローマ法王のもとへ遣欧使節を派遣した。
受洗後まもなく島津氏が日向へ侵攻してきたので、宗麟は4万の軍勢で合戦に臨んだが、宣教師と祈祷を行うばかりで軍議に加わらず、あげく戦場で壊滅的な敗北を喫することとなり、こののち大友氏は衰退の道を辿ることとなった。運命の戦を「耳川合戦」という。
photo:ばつまるさん
上杉謙信<kenshin uesugi>
□山形県米沢市丸の内 米沢城 (上杉神社境内)
家 □享禄3−天正6(1530-78)
□戦国時代の武将

越後の守護代家に生まれる。
天文17(1548)家督を継ぎ、春日山城に入る。'52より上杉憲政救援のため関東に出兵し北条氏康と対抗、翌年謙信を頼った信濃の村上義清の旧領回復を名目に武田晴信(信玄)と川中島で対戦。後北条・武田氏との両面作戦を展開し、関東出兵14回、川中島対戦5回に及ぶ。
永禄4('61)小田原城攻囲を解き、鎌倉鶴岡八幡宮で上杉憲政より関東管領職と上杉の名跡を得る。謙信の関東への志向は強く、反北条氏の里見・佐竹氏らと結び関東制圧を策したが、武田信玄が誘う神保氏や越後一向一揆の圧力を受け成功せず、'69信玄の駿河侵入を契機に相越和睦となった。
天正1('73)信玄死後背面の脅威がなくなると越中・能登・加賀に進出、将軍足利義昭に応じて毛利氏と結び、織田信長と対立したが、'78関東出兵準備中に急死した。
清廉で、道義を重んずるなど戦国大名のうちできわだった性格を示す。永禄10(1567)武田信玄に対して、今川氏真と北条氏康が共謀して甲斐への塩輸送を断つ「塩留(しおどめ)」を行ったとき、これを知った謙信は今川・北条の行いは卑怯だとして、宿敵信玄に義塩を送ったという話しは有名。
photo:シリウスさん
織田信長<nobunaga oda>
□滋賀県蒲生郡安土町上豊浦 JR琵琶湖線安土駅前
□天文3−天正10(1534-82)
□戦国・安土桃山時代の武将

尾張守護代織田一族の清洲織田家の奉行信秀の長男。尾張国那古野城で生まれる。天正15(1546)古渡城で元服。'51父の死去により18歳で家督を相続、弘治1('55)清洲城に移る。
永禄3('60)桶狭間で今川義元を討ち、'62徳川家康と同盟、小牧に要害を構える。※小牧城'64浅井長政と同盟。'68将軍足利義昭を奉じて入洛するがのちに義昭と不仲になり、義昭は武田・浅井・朝倉・三好・比叡山・本願寺・毛利といった反信長勢力を引き入れ対抗した。元亀2('71)比叡山を焼き打ちし、天正1('73)朝倉・浅井氏を滅亡させ、'76には安土城を築城、ここに本拠を移した。前後して'74-'80には本願寺と一向一揆を討ち、'75長篠の戦※長篠城、'82天目山で武田氏を滅ぼしている。備中高松城攻略中の羽柴秀吉援助のために出陣。同年6月京都本能寺において明智光秀に襲われ自殺した。
photo:ばつまるさん
小谷の方−市<ichi>
□福井県福井市中央1 北庄城跡
□天文16−天正11(1547-83)
□戦国・安土桃山時代 織田信長の妹

永禄6(1563)兄信長の命で、近江国小谷城主浅井長政に嫁し、3女2男の母となる。天正1('73)信長が浅井長政を滅ぼしたのち、信長の元に引き取られるが、'82柴田勝家に再嫁し、越前北ノ庄へ赴く。翌年賤ヶ岳で羽柴秀吉に敗北。3女を城から脱出させたのち勝家とともに自刃した。
※長女−秀吉の側室「淀」・二女−京極高次の室「常高院」・三女−徳川秀忠の室「崇源院」
photo:ばつまるさん
井伊直政<naomasa ii>
□滋賀県彦根市彦根駅前 彦根城
□永禄4−慶長7(1561-1602)
□安土桃山・江戸前期の武将

永禄5(1562)直政2歳のとき父直親が今川氏真より謀反の疑いをもたれ殺され、領地を没収となった。天正3('75)15歳のとき徳川家康の鷹狩のおり取りたてられる。
'82家康による甲州経営に力を尽くし、旧武田家の家臣を抱え、'84小牧・長久手の合戦には旗本として出陣。その後徳川四天王のひとりとして重用される。家康は勇猛で知られた武田武士の赤い甲冑を継承するよう命じたので、その後の合戦では「井伊の赤備え」として敵将から恐れられることとなる。また直政の隊はよく先鋒をつとめ、自ら先頭にたって敵方へ突っ込んでいく姿は「井伊の赤鬼」と称された。
家康が関東移封になると、上野国(群馬県)箕輪城主となり12万石を領し、慶長5(1600)関ヶ原合戦の戦功で近江国(滋賀県)佐和山城6万石、合せて18万石の城主となった。
photo:荒賀源外さん
伊東満所<mansyo ito>
□宮崎県西都市 都於郡城本丸 
□元亀1−慶長17(1570-1612)
□安土桃山・天正遣欧少年使節

大友宗麟の親戚伊東義祐の娘町上と、伊東一族の修理亮祐青との間に生まれたとの説がある。洗礼名はドン−マンショ(Don-Mancio)。
天正10年(1582)1月、13歳で大友氏の代表としてローマ教皇庁への派遣使節の正使となり、一行とともに長崎を出航し、ローマ教皇庁を訪問、欧州各地を視察して'90年に帰国。のちイエズス会の伴天連としてキリスト教の布教活動に従事した。
photo:ばつまるさん
天草四郎<shirou amakusa>
□熊本県本戸市本戸馬場町 本戸城
□元和7−寛永15(1621-38)
□江戸前期 島原の乱の総大将

小西行長の旧臣益田甚兵衛好次の子で益田時貞。
甚兵衛が小西家を浪人後、肥後国宇土に土着し、そこで成長し、幼い時から何度か長崎に出かけてキリシタンに入信し、ジェロニモの洗礼名をもった。一揆の直前に父とともに宇土から天草郡大矢野村に移る。そこの多くの住民がキリシタンだった。
さかのぼること慶長年間に、天草一帯で布教につとめた宣教師マルコスが国外追放前に「今から25年後に、16歳の天童がこの世に現れ、さまざまな奇跡を起こすだろう...」といい残した。予言通りの少年が現れたとの噂がにわかに広まる。
寛永14(1637)キリシタン弾圧・不作に苦しむ農民からの重税取りたてといった圧政に抗して島原と天草に一揆が起こり、やがて合流すると、その総大将に擁され島原半島の原城にたてこもった。幕軍の将板倉重昌を敗死させ、90日に及ぶろう城を続けたが、食料・弾薬が尽き、’38年2月28日陥落、時貞も細川家中に討ち取られたいう。
photo:ばつまるさん
新井白石<hakuseki arai>
□千葉県君津市久留里内山 久留里城
□明暦3−享保10(1657-1725)
□江戸中期の儒学者・政治家

上総久留里藩士土屋利直の家臣新井正斉の長男で、苦しい生活の中学問に精進し、木下順庵に学び、土屋家に仕えたが浪人となる。のちに堀田家に仕え、ついで甲府城の徳川綱豊(家宣)の儒臣となり、宝永6(1709)家宣が6代将軍となると、側用人真部詮房(まなべあきふさ)とともに藩政を補佐。正徳1('11)寄合となり家禄1千石で旗本となる。
家宣の死後は詮房とともに7代将軍家継を補佐したが、享保1('16)家継が没し、8代将軍吉宗の世になると職を退き隠遁生活を送った。
その足跡は、閑院宮家の創設とう朝幕関係の改善、朝鮮使節の待遇簡素化に伴ない国書の称号問題を処理し幕府制度・文物を公家風に改めた。経済政策としては、悪質金銀貨発行の責任者であった勘定奉行の萩原重秀を罷免し、正徳金銀を発行して慶長度の高品位に戻したが、貨幣の数量が不足して充分な成果は上げられなかった。'15金銀の海外流出を防ぐため海舶互市新令(正徳新令)を出して長崎貿易に制限を加えた。
ためになる著書多い。
photo:華帯畄さん
大石内蔵助<kuranosuke ooishi>
□東京都港区高輪2-11-1 泉岳寺 忠臣蔵の謎と真実
□万治2−元禄16(1659-1703)
□江戸中期・赤穂四十七士の首領

赤穂藩城代家老良昭の長子として赤穂に生まれる。名は良雄・通称は内蔵助。父が早く没したため祖父良欽の家督を相続し、21歳で家老。山鹿素行に軍学、伊藤仁斎に儒学を学び、藩主浅野長矩を助けた。
元禄14(1701)長矩が吉良義央を江戸城松の廊下で傷つけ、死を命ぜられ封地召上げとなった。幕府から城あけわたしを命ぜられ、はじめそれに抵抗をはかったが、広島の浅野氏らに説得されて開城。大石は主家の再興を図り仕官の道を断って京都山科に移り住んだ。各方面への運動も虚しく再興の道が絶たれると、ついに復讐の覚悟を決め、周到な計画の下47名の同志と結束して、'02年12月14日吉良邸に討ち入り義央の首をあげた。
のち細川家に預けられ、翌'03切腹。
photo:荒賀源外さん
伊能忠敬<tadataka inou>
□東京都江東区富岡1-20-3 富岡八幡宮
□延享2−文政1(1745-1818)
□江戸後期の測量家

18歳のとき佐原の名門伊能家に入り、家業の酒造や米取り引きに才を発揮した。のち名主となって、利根川の洪水、浅間山噴火による降灰、天明の飢饉などに際して私資を投じて村政に力を尽くし、苗字帯刀を許された。この間、算術・天文などに興味を示したが、寛政6(1794)長男の景敬に家を譲って隠居して江戸に出、研究を専らにするようになった。
'95幕府の改暦事業のために大坂より江戸に来た暦学家高橋至時に入門して西洋天文学などを学び、また自ら天文観測を行った。次ぎに地図製作を志し、至時の推薦によって、1800幕府の命を受けて蝦夷南部を測量、以後17年間測量に従事し、文化13('16)全国の沿岸測量を終えたが、地図の編纂は死後3年目の文政4('21)に完成し幕府に上程した。わが国実測図の最初の地図となり「伊能図」と呼ばれた。
photo:あられ
岩永三五郎<sangoro iwanaga>
□鹿児島県鹿児島市 石橋公園内
□寛政5−嘉永4(1793-1851)
□肥後の石工

http://www.yado.co.jp/hasi/kagosima/isibasi_park/isibasi.htm

http://www.pref.kagoshima.jp/home/bunshinka/kira/e1050210.htm

※参考資料がないので上記リンクさせていただきました。
photo:ばつまるさん
井伊直弼<naosuke ii>
□神奈川県横浜市 掃部山(kamonyama)公園 彦根城
□文化12−万延1(1815-60)
□幕末期の大老

弘化3(1846)長兄・直亮の養子となり、嘉永3('50)家督を継いで彦根藩主になると掃部頭に任ぜられた。'53ペリー来航に際しては藩兵2000名を指揮して警備にあたり、安政1('54)には京都守護職になる。
強硬な攘夷論者の水戸藩主・徳川斉昭と結び、親藩・外様などの有力諸大名との協調政策を推進した老中・阿部正弘の幕政立て直しに対し、幕府独裁による立て直しの必要を考え、水戸派に対抗する溜間詰の譜代大名の中心となる。'55堀田正睦が老中筆頭になると、外交問題に加え将軍継嗣問題(一ツ橋慶喜を推す水戸派 Vs 紀伊藩主徳川慶福を推す紀伊派)が起こりますます激しく対立した。'58紀伊派は直弼を大老におし立て、直弼が就任するとただちに慶福(14代家茂)を将軍と定め、米国総領事ハリスの要求を入れ勅許を待たずに日米通商条約に調印した。
これに反対する大名・公卿・志士らの抗議運動が盛んになると徹底的に弾圧を加え、いわゆる「安政の大獄」を引き起こし、これに怒った水戸浪士らにより万延1('60)3月3日江戸城桜田門外で暗殺された。
photo:荒賀源外さん
大村純煕<sumihiro oomura>
□長崎県大村市玖島 玖島城
□文政8−明治15(1825-82)
□幕末期の大名 肥前(長崎県)大村藩主・純顕の子

弘化4(1847)封をつぎ丹後守となる。海防に熱心で、渡辺清左衛門に命じ、英式兵法を採用。当時の藩内は尊王・佐幕にわかれて対立していたが、慶応3('67)佐幕派が勤皇派の指導者松林飯山を暗殺したのを機に佐幕派を処罰。戊辰戦争には薩長軍とともに各地を転戦した。
photo:ばつまるさん
大久保利通<toshimichi ookubo>
□鹿児島県鹿児島市西千石町1番 高見橋のたもと
□天保1−明治11(1830-78)
□幕末・明治前期の政治家

弘化3(1846)薩摩藩の記録書助役として出仕。藩主・島津斉彬が藩政改革の運動を起こし、藩内少壮藩士の間に政治運動が高まると、同輩の西郷隆盛らとこれに参加、精忠組を結成し革新派の中心となる。斉彬の死後、藩主・忠義の子久光のもとで藩を挙げて公武合体運動を進めた。薩英戦争、下関砲撃事件、幕府の長州征伐、藩内保守派の台頭などから倒幕の必要を痛感し、京都に出て公家の間を奔走し、岩倉具視に接近、慶応2('66)に長州藩の木戸孝允と結び薩長連合を結成させ、討幕派の中心人物となる。以後倒幕密勅の降下、王政復古などの指導的役割を果たす。
明治2('69)参議となり、木戸らと版籍奉還を実現させ、さらに'71廃藩置県を成功させる。同年大蔵卿となり地租改正の建議を行い、また、岩倉遣外使節団の副使として欧米を巡遊し、'73帰国。征韓論に反対の立場をとり、征韓派退陣後は内務卿となり政府内に隠然たる勢力をもつ。地租改正・殖産興業などによる資本主義育成政策を推進し、内政の確立をはかる。'73佐賀の乱を処理、また台湾処分を建議し、その処理のため清へ渡る。'75台湾出兵に反対した木戸をむかえ、かれの意見を入れて政府体制の改革を行なう。'77西南戦争による明治政府最大の危機を乗り越え、翌年4月地方官議会を開き、郡区町村編成法の制定をはかったが、5月石川県士族島田一良により東京紀尾井坂で暗殺された。
photo:ばつまるさん
板垣退助<taisuke itagaki>
□高知県高知市 高知城
□天保8−大正8(1837-1919)
□明治時代の政治家

幕末期に討幕派に投じて、戊辰戦争には大隊司令・総督府参謀として参加、会津攻略に功績があり、参与に列せられた。帰郷後、土佐藩大参事となり藩政改革に当たり、翌年西郷隆盛の推挙により明治維新政府の参議となる。征韓論に敗れて下野し、明治7(1874)愛国公党をおこし、同志とともに民選議院設立建白書を提出した。高知において立志社を設立して、自由民権運動のさきがけとなった。'75大坂会議の結果、参議に返り咲いたが、ほどなく辞任した。その後、国会開設運動につとめ愛国社をおこし、'81政府の国会開設の約束とともに自由党を結成、その総理となった。
'82岐阜で遭難したが、そのとき叫んだといわれる<板垣死すとも自由は死せず>は民権運動の合言葉となった。同年11月外遊したが、その資金の出所をめぐって党内の反対意見が高まった。翌年6月帰国したが、自由民権運動の下からの激化によって戦線を離脱し、'84自由党を解党した。解党後高知に帰ったが、大同団結運動の高まりとともに、'87上阪し全国有志大懇親会にのぞんだ。政府はこの動向をおさえるために、彼の再三の辞退にかかわらず伯爵を授けた。
'90政治的結集をはかり愛国公党をおこし、つづいて立憲自由党に合流した。'90立憲自由党を自由党に改組するとともに総裁に就任した。ついで'96第2次伊藤内閣の内相となり、'98自由党・改進党が合流して憲政党を組織すると、大隈重信とならんで同党首領となり、日本初の政党内閣といわれる大1次大隈内閣の内相に就任した。1900立憲政友会結成にさいし、憲政党を解党して合流し、ここにその政治的生命は終わった。晩年は華族制度の廃止をうったえ、また社会事業に尽力した。
photo:ばつまるさん
大隈重信<shigenobu ookuma>
□東京都新宿区 早稲田大学
□天保9−大正11(1838-1922)
□明治・大正の政治家

鍋島(佐賀県)藩士大隈信保の長男。7歳で藩校弘道館に入り、17歳で尊攘派の義祭同盟に加わる。明治元年('68)明治新政府樹立とともに参与となり、浦上信徒弾圧事件などを担当。明治3年('70)参議、明治6年には大蔵省事務総裁となる。征韓論に反対し、台湾出兵や西南戦争ではそれぞれ事務局長官として、軍事輸送の面で岩崎弥太郎の三菱汽船会社を助成。'81国会即時開設論と北海道開拓使官有物払い下げ反対で伊藤博文や山県有朋と衝突、失脚させられる(明治14年の政変)。翌15年('82)、同志とともに立憲改進党を創立して総理となり自由民権運動の一翼を担ったが、'84には離党して運動の指導を放棄した。この間に東京専門学校(現:早稲田大学)を創立。
'88伊藤内閣の外相として、外国人の内地雑居や外国判事任用問題とうに関する条約改正の交渉をしたが失敗。’89玄洋社社員の来島恒喜に爆弾を投ぜられ片脚を失い辞職した。'96野党を合同して進歩党を結成、松方正義内閣の外相となったが翌年辞職。'98板垣退助とともに憲政党を結成、史上最初の政党内閣を組織したが、党内の分裂と内閣の不統一のため4ヶ月で総辞職。1910政界を引退し、早稲田大学の総長に就任。大正初年閥族打破の憲政擁護運動が起こると再び政界入り、立憲同志会の援助を得て、大正3年('14)内閣を組織。第一次大戦にはドイツに宣戦布告を強行。翌年中華民国に21か条要求をつきつけ、内外の批判を受けた。
photo:SPOOKさん
大山巌<iwao ooyama>
□東京都千代田区九段南2丁目 九段坂公園
□天保13−大正5(1842-19162)
□明治時代の陸軍軍人 元帥 西郷隆盛の従弟

藩校の造士館および演武館に学ぶ。文久2(1862)島津久光の上京に従い、大坂滞在中、寺田屋事件に関係。'63薩英戦争には砲台をまもり、藩命により江戸の江川太郎左衛門の塾で砲術を学ぶ。戊辰戦争で薩軍第2番砲隊長。明治3('70)欧州に派遣され、普仏戦争を見学、翌年帰国。陸軍大佐となる。さらに3年フランスへ留学。'77陸軍卿代理兼東京鎮台司令長官。西南戦争には征討別働第1旅団司令官。以後長州の山県有朋とならび薩摩の総帥として重きをなす。'78陸軍中将、参謀本部次長。'80陸軍卿、'81参議を兼任、'82参謀本部長を兼任。
'84鳥尾小弥太・野津道貫・川上操六・桂太郎ら陸軍の俊秀をひきいて渡欧、各国の兵制を視察した。帰国後、兵制の改革に尽力。'85陸相、'91大将・枢密顧問官。'92再び陸相。日清戦争には第2軍司令官。'98元帥府が創設されると元帥府に列せられる。その後、参謀総長、貴院議員。日露戦争には満州軍総司令官。大正3(1914)から没するまで内大臣を務めた。
photo:芯@小太り爺さん(笑
岡倉天心<tenshin okakura>
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□文久2−大正2(1862-1913)
□明治時代の美術行政家・思想家

東京大学在学中にフェノロサ(米国の哲学者。明治時代に来日しお雇い外国人となる。日本美術を紹介した。)を知り影響を受ける。卒業後文部省に入り、古美術の保護や美術の普及にあたった。明治19(1886)美術取調委員としてフェノロサとともに欧米に渡る。'89東京美術学校(現:東京藝術大学)の創立に尽力し、翌年校長に就任。'98美術学校事件により校長を辞任。橋本雅邦・門弟横山大観・菱田春草らを率いて日本美術院を創立。1901インド、'04米国へ旅行、ボストン美術館東洋部管理者に就任。日米間の往復、中国や欧州視察と精力的に活動。ところが日本美術院が経営難に陥り、'06東京から茨城県五浦に移転した。
photo:ばつまるさん


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