homeprofile of the heroeska/c
古今の英雄をご紹介


孔子<Confucius>
□栃木県足利市昌平町2338 足利学校
□紀元前551−紀元前479
□中国春秋時代の思想家・儒教創始者

「孔子」は尊称で、「孔丘(こうきゅう)」という。魯(ろ)の昌平郷で宗の王家に連なる家の子として生まれた。幼くして両親を失い苦学して学問に励み、50歳で魯の大臣に取りたてられた。しかし理想を果たせず失望して諸国を巡る旅に出る。その後も孔子の理想を受け入れる国はなく、69歳で帰国すると弟子の育成に専念。
それまでのシャーマニズム(原始宗教・占や予言とう)色の濃い原始儒教を体系化し、道徳・宗教に昇華させた。孟子(もうし)とうの優れた後継者により、漢の武帝時代国教となる。
中国では現代でも孔子を崇敬するひとが多く各地に多数の廟がある。日本では学問として江戸時代に幕府が儒教を(特に朱子学)中心に位置づけたので、講義した幕府や藩校に孔子を祭る廟が建てられた。
photo:あられ
玄奘三蔵<genjyousanzou>
□埼玉県飯能市上名栗3198 白雲山鳥居観音
□602−664
□唐代 中国の訳経僧

今から1300余年前、求法の念止み難く凡ゆる艱難辛苦を冒し、遠くインドに渡り17年に亘り仏跡を巡拝し、多くの国王高僧に面接し、数百巻の仏典を祖国中国に持ち帰る。20年に亘り経典の翻訳に専念し、1385巻という超人的経文を完成。仏教の大躍進の基礎をつくり、日本仏教の興隆の祖と崇敬されている。
その不屈の研究心と逞しい実践力による行動は、有名な「西遊記」を通じ、今日尚津々浦々で親しまれている。
photo:あられ
空海<kukai>
□東京都足立区西新井1-15-1 西新井大師
□宝亀5−承和2(774-835)
□平安初期の名僧 真言宗開祖 弘法大師

延暦7(788)長岡京に上京し伯父阿刀大足に師事、18歳で大学に入り味酒浄成・岡田牛養に儒学を学んだが中退、24歳まで優婆塞(うばそく)として阿波国大滝岳や土佐国室戸崎の整地を巡る。'97「三教指帰」を著わして出家。
804遣唐使藤原葛野麿の第1船により最澄らとともに入唐し、長安に到り青龍寺の恵果に就き密教大法の伝授を受け、大同1('06)帰国し、翌年「請来目録」を平城天皇に献上じた。弘仁1('10)高尾山寺で最初の鎮護国家の修法を行う。'09最澄と交際があり。'16門弟問題にからみ交わりを絶つ。
同年、紀伊国高野山の地を賜り金剛峯寺の基を開き、'23未完成の東寺(教王護国寺)を得て真言密教の道場とする。天長5('28)最初の庶民学校である綜芸種智院(syugeisyuchiin)を創設。'30大僧都となり「秘密曼荼羅十住心論」を著わし、承和1('34)毎年の宮中後七日御修法を許可される。翌年高野山で没する。
photo:あられ
熊谷直実<naozane kumagai>
□埼玉県熊谷市熊谷駅前
□永治1−承元2(1141-1208)
□平安末・鎌倉前期の武将

武蔵国(埼玉県)大里郡熊谷郷の住人である父・直定が早世したため兄の直正とともに、久下郷の久下直光に養育される。
保元1(1156)の乱では源義朝に従い、、続く平治1('59)の平治の乱には源義平に従軍。ついで平知盛に仕えた。
治承4('80)石橋山の合戦では大庭景親軍に属して源頼朝と敵対したが、まもなく麾下に入る。平氏に寄る佐竹秀義追討戦で功を挙げ、熊谷郷の地頭職に復帰した。その後、源義仲や平家追討戦ではめざましい活躍をみせ、とくに元暦1('84)の一ノ谷の合戦では子・直家とともに先陣をきり、、敗走する平敦盛と格闘の果てに討ち取った。
文治3('87)鶴岡八幡宮で流鏑馬の的立の役を命じられるがこれを拒否したため所領の一部を没収された。久下直光としばしば領地をめぐる争いをしていたが、建久3('92)話し合いに敗れて(武勇は優れていてもおしゃべりは苦手だったらしい)逐電、そのまま出家。法然に帰依し弟子となり、法名を蓮生坊という。
photo:あられ
亀山上皇<kameyama-jyouko>
□福岡県福岡市東区 東山公園
□建長1−嘉元3(1249-1305)
□後嵯峨天皇の皇子

正元1('59)兄の後深草天皇に代わり即位。'72後嵯峨天皇が没すると皇位の継承問題が生じ、鎌倉幕府は亀山天皇の母・大宮院とはかり天皇を治世の君とした。実権を握った天皇は、'74皇位を世仁親王に譲り院政を開始。正応2('89)、後深草上皇の巻き返しで形勢が不利になり落胆し出家した。
院政の間に、文禄の役・弘安の役が起きている。
要害石築地>参照
photo:ばつまるさん
楠正成<masashige kusunoki>
□東京都千代田区皇居前広場
□永仁2−延元1・建武3(1294-1336)
□南北朝時代の武将・河内国観心寺領の土豪

元弘1・元徳3(1331)笠置山に脱出していた後醍醐天皇に応じて河内赤坂城に挙兵するが敗北。後醍醐天皇は隠岐に流された。翌年大塔宮護良親王(後醍醐天皇の皇子)の令旨に応じて千早城で再び挙兵。見違えるほど強くなっていた。元弘3・正慶2('33)阿蘇治時・長崎高真の鎌倉幕府方包囲軍と激戦し、反幕府勢力結集の時をかせぎ、赤松氏らの六波羅探題攻撃を有利に導いた。金剛山包囲軍の崩壊により、千早城を発し、後醍醐天皇を兵庫に迎えた。建武政権樹立に貢献するところ多く、恩賞方・記録所の寄人に任ぜられ、雑訴決断所の奉行にもなった。新田義貞・名和長年らと武者所に勤務。従五位下、河内守、摂津守となる。天皇から厚く信任され、二条富小路に屋敷をかまえて、天皇の護衛役に当たった。
延元1・建武3('36)西上する足利尊氏軍の畠山高国を宇治に迎えて戦う。ついで京都糺すの森において、上杉重能・畠山国清・斯波家経らの軍とたたかってこれを破り、尊氏を九州へ敗走させた。同年尊氏の東上にあたり、兵庫湊川に陣し、足利直義ひきいる陸上軍と交戦中、背後より細川定禅の軍に攻撃され、弟正李ら一族の多くとともに戦死した。
「太平記」の中では中心的人物の一人として描かれている。
photo:あられ
菊池武光<takemitsu kikuchi>
□福岡県三井郡大刀洗町 大刀洗公園
□?−文中1・応安5(?-1372)
□南北朝時代の武将

菊池武時の子。本貫菊池の出ではなく、元来、惣領ではないが、しだいに一族を結集する。正平3・貞和4(1348)積極的に征西将軍宮懐良親王の入国を迎え、間もなく征西府を菊池に誘致して、軍事力を提供。九州南朝方の中心として、各地に転戦。鎮西管領一色範氏・守護少弐頼尚らを破り、ついに大宰府を占領、正平16・康安1('61)征西府をここに移す。その間、自らは肥前・肥後など九州諸国の守護に就任、征西府隆盛の基盤を築いた。
'70年代に入ると、九州探題今川了俊の下向で圧迫され、大宰府を放棄して肥後国に帰った。

※大刀洗町の公式HPより

http://www.town.tachiarai.fukuoka.jp/rekisi/machibunka.htm#9
photo:ばつまるさん
金森長近<nagachika kanamori>
□岐阜県高山市 城山公園 高山城
□大永4−慶長12(1524-1607)
□安土桃山・江戸前期の武将

織田信長に仕え柴田勝家に属し、天正2(1574)越前国10万石を前田利家・佐々成政と共に宛行なわれる(府中三人衆と称す)。'81飛騨国を宛行なわれる。'83勝家が滅びると豊臣秀吉に属す。'86高山城主となる。文禄の役には肥前国名護屋に陣し、秀吉の死後は徳川家康に属す。関ヶ原合戦では東軍に加わって石田三成と戦った。
千利休門下の茶人としても有名。
photo:SPOOKさん
小早川隆景<takakage kobayakawa>
□広島県三原市 JR三原駅北口
□天文2−慶長2(1533-'97)
□安土桃山時代の武将

天文10(1541)小早川(竹原)興景のあとをつぎ、'50小早川(沼田)繁平のあとをつぐ。永禄10('67)備後国三原城を築城。本拠地とし兄吉川元春とともに本宗家毛利氏の発展に尽力。'82備中高松城で豊臣秀吉と講和。秀吉に信任され五大老のひとりとなる。'85四国征伐の巧により伊予35万石を領し、'87あらためて筑前・筑後・肥前に所領を受け筑前国名島に築城(名島城)。'91羽柴秀俊(小早川秀秋)を養嗣子とする。文禄1('92)文禄の役に出陣。
'93領国を秀秋に譲り三原城に隠退。秀吉より筑前に隠居料5万石を給う。同年中納言。慶長2年('97)三原城で没した。
photo:ばつまるさん
小西行長<yukinaga konishi>
□熊本県宇土市古城町 宇土城
□弘治1?−慶長5(1555?-1600)
□安土・桃山時代の大名

天正のはじめまでは父と共に豊前の宇喜多氏に仕えていたが、天正7年ごろから豊臣秀吉に近づき、備中高松城攻撃、山崎の合戦に従い、瀬戸内水軍の将となり、'88肥後半国を領して禄高14万石余の宇土城主となった。文禄1('92)文禄の役に先立って秀吉の命を受け島井宗室を使者として朝鮮に派遣して交渉内偵に当たらせ、出兵では加藤清正とともに先陣となり、釜山城などの攻撃に当たった。明使沈惟敬との和平交渉にも当たったが、明使より外交的な力量が劣り秀吉の意図とも違って失敗した。慶長2('97)慶長の役にも加わったが、秀吉の死去により撤退、この間行長は諸将間で不評をかった。1600石田光成と謀り徳川家康を除こうとしたが、関ヶ原合戦に破れて捕虜となり、京都六条河原で斬られた。
'84年に父と共に受洗。秀吉に大名を追われた高山右近を援助し、ライ病治療・孤児救済など慈善事業に当たった。
photo:ばつまるさん
加藤清正<kiyomasa kato>
□熊本県熊本市本丸 熊本城
□永禄5−慶長16(1562-1611)
□南北朝時代の武将

通称虎之助といい、豊臣秀吉と同郷で尾張中村の出身。母親同士が従姉妹であったと伝えられる。5歳のときに秀吉に預けられ、譜代の家来の少ない秀吉にたいそう可愛がられ15歳で元服、170石を与えられる。20歳のとき鳥取城攻めで小物見という斥候役を与えられ、敵の首を取って100石加増された。清正の名を広めたのは賎ヶ岳の合戦。柴田勝家軍に向かい一番槍の戦功をあげ、福島正則・脇坂安治・加藤嘉明・平野長泰・片桐且元・糟屋武則と共に「賎ヶ岳七本槍」称えられた。天正16(1588)九州征伐の功で肥後半国25万石を与えられ大名の列に加わる。
文禄1('92)朝鮮出兵。隣国のライバル小西行長と功を競いながら破竹の勢いで進撃するが明の大軍が繰り出すと日本軍は窮地に陥り、やがて行長や石田三成が和平交渉を進めることとなる。このとき三成が清正の行動の非を秀吉に訴えたため閉門。許され再び朝鮮に渡り生涯最大の大苦戦を強いられる。秀吉の死後撤退。帰国後武功派といわれる清正らと文治派といわれる三成らは激しく対立し三成襲撃を図るが失敗。三成への恨みは徳川家康率いる西軍に味方し関ヶ原合戦で晴らすこととなる。この戦で清正は行長の宇土城などを攻略し、戦後肥後一国の大々名となり天下の名城熊本城を築く。慶長16(1611)秀吉の遺児秀頼と徳川家康を二条城で対面させ、その帰路に発病。
photo:ばつまるさん
黒田長政<nagamasa-kuroda> 兜でご勘弁を...
□福岡県福岡市中央区西公園 光雲神社
□永禄11−元和9(1568-1623)
□安土桃山・江戸前期の武将 黒田孝高(如水)の長男

元服以前、人質として織田信長のもとにあり、のちに豊臣秀吉に仕え、天正11(1583)賎ヶ岳の合戦に参加。小田原の役においては留守軍となり、根来雑賀一揆を討つ。九州出兵では先陣となり大いに手柄を立てた。文禄・慶長の役では、肥前国名護屋城築城の奉行を勤め、さらに朝鮮にも渡った。
'87豊前国中津城主となる。慶長5(1600)関ヶ原合戦には徳川家康に加担し、福島正則らと共に岐阜城攻めに加わり、また小早川秀秋・吉川広家を味方に引き入れた。戦功により筑前国52万石を賜り福岡城主となる。

※写真は「水牛角脇立付の桃形兜」・後ろの銅像は「母里太兵衛
photo:ばつまるさん
春日局<kasuga-no-tsubone>
□東京都文京区春日一丁目 礫川(rekisen)公園
□天正7−寛永20(1579-1643)
□江戸前期の大奥女中・美濃の出身で名は阿福(おふく)

母の縁によって稲葉重通の養女となり、その子正成に嫁して、正勝・正定・政利の3子を生む。慶長9(1604)板倉勝重の推挙をうけて、のちの3代将軍徳川家光の乳母となり、江戸へ下向、忠勤に励む。家光の弟忠長の誕生後、秀忠夫妻の寵愛が忠長にあつまるとして駿府に赴き、家康に訴えて家光の将軍継嗣の確認に尽力、いらい家光の信頼を得て、大奥での権勢をひろげた。元和9('23)家光が将軍となり、御台所浅井氏の死後、大奥の中心勢力として諸制度を定め、規律を取り締まる。
寛永6('29)上洛し、武家伝奏三条西実枝の妹分として緋袴をゆるされ、御水尾天皇に拝謁、春日局と称す。無位無官の女子で参内の異例となる。晩年従三位に進み、江戸湯島に天沢寺を建立。寺領300石を給され、菩提寺に準じた。
photo:あられ
近藤勇<isami-kondo>
□東京都三鷹市大沢6-13-11 龍源寺 新撰組隊長/近藤勇
□天保5−明治1(1834-68)
□幕末期の新撰組隊長

武蔵国多摩郡調布上石原村の宮川久次郎の3男、近藤周助の養子。八王子の天然理心流近藤周助の試衛館で剣術を修行し、近藤家を継いで、天然理心流4代目家元となる。
文久3(1863)14代将軍徳川家茂上洛に伴い京都の尊攘派志士牽制のため幕府の徴募した新徴浪士隊に加わり、上洛して洛外壬生村に屯集。清川八郎ら尊攘派が東帰した後も京都に残り、芹沢鴨らと京都守護職の支配下に入り新撰組を結成。のちその隊長となる。尊攘派の取締りと弾圧にあったり、明治1('68)鳥羽伏見の戦いで敗戦後東帰。佐幕軍甲陽鎮撫隊を組織して官軍と戦って敗れ、敗走後下総国(千葉県)流山で捕らえられ、4月に板橋(東京都)で斬殺された。首級は京都三条河原に梟されたという。
photo芯@元歩僧屋さん
小松帯刀<tatewaki-komatsu>
□鹿児島県鹿児島市山下町 県文化センター
□天保6−明治3(1835-70)
□幕末・明治期の政治家

文久1(1861)島津久光の薩摩藩の藩政改革に側役として補佐、以後要職を歴任し藩政を担当する。とくに大久保利通らの藩内改革派の党首となり、下級武士の藩政への全面的な進出を大いに助けた。翌'62光久を補佐して東上し幕政改革に尽力。同年家老となる。元治1('64)禁門の変に当たっては、京都にあって藩兵を指揮して奮戦し、長州藩兵を撃退。その後も薩摩藩を代表して京都にとどまり、岩倉具視らの公卿と大久保・西郷隆盛らの間を周旋するなど国事に奔走し、討幕運動を成功に導く。明治1('68)参与、総裁局顧問となり、'69玄蕃頭、さらに外国官副知事となった。
photo:ばつまるさん
小松宮彰仁親王<akihito komatsunomiya-shinnou>
□東京都台東区 上野公園
□弘化3−明治36(1846-1903)
□陸軍元帥

<説明板より>
彰仁親王は伏見宮邦家親王の第8皇子。
安政5年(1858)京都仁和寺に入って純仁法親王と称し、慶応3年(1867)勅命により22歳で還俗、東伏見宮嘉彰と改称した。同4年1月の鳥羽・伏見の戦に、征東大将軍として参戦。ついで会津征討越後口総督になり、戊辰戦争に従軍した。
明治10年5月、西南戦争の負傷者救護団体として、博愛社が創立されると、9月その総長に就任した。同15年には小松宮彰仁親王と改称。同20年博愛社が日本赤十字社と改名すると、総裁として赤十字活動の発展に貢献した。
photo:SPOOKさん
倉場富三郎<tomisaburo-kuraba>
/英名:Tomas Albert Glover
□長崎県長崎市南山手町 旧グラバー邸
□明治3−昭和20(1871-1945)
□実業家・水産学者

英国人の貿易商人トーマス・ブレーク・グラバーの長男(二男ともいわれる)。
学習院大学を卒業後、米国ペンシルバニア大学へ留学し生物学を学ぶ。帰国後、父の会社に入社。長崎汽船漁業株式会社を興し、イギリスから輸入した鋼船汽船による日本ではじめてのトロール漁業を導入した。混血である彼は第2次世界大戦時にスパイの嫌疑をかけられ国に監視された。終戦直後にピストル自殺。
長崎魚市場から収集した水産動物の精巧な図譜「日本西部及び南部魚類図譜」を長崎大学水産学部に寄贈した。
photo:ばつまるさん


Back
Home