中津城 nakatsu-castle 大分県中津市二の丁

【説   明】
-ばつまるさん-
小さいながらも立派な天守を持った城ですねぇ、派手さは無いものの質実剛健、まるで古武士の様です。
この中津城、黒田官兵衛が縄張りしただけあって、黒田親子が築いた福岡城に共通する部分も見受けられます。
内堀を海と繋げ、城から直接海に漕ぎ出せる作りや乱杭をうがち、敵の兵船が容易に近づけない様にした山国川城下に3つしか無かった寺を近隣から集め14の寺からなる寺町を作ったのも戦の際、墓石を鉄砲の弾除けに使う為だし城下の道を真っ直ぐ作らなかったのも 敵が安易に城に近づけないようにする為ですし。
あと、右の写真左側−神社のヒサシが写りこんでますが、江戸時代通じて中津の藩主として君臨した奥平家が神格化され、奥平神社として祀られています。
黒田も偉いけど、この奥平家もなかなか偉いよねぇ、身分を問わず学問を奨励し大名仲間から蘭癖大名と陰口叩かれても蘭学を好み蛮社の獄では、我が身を盾にしてまで蘭学者を守った。きっと、地元では医学の神か学問の神として信仰されているんでしょうねぇ。
なにより私が驚いたのは天守の見晴らしの良さ、決して高い天守閣ではないのに視界が広く、昔と違って天守並みに高いビルが幾つもあるのに北は北九州の福知山山系、南は宇佐近辺まで見渡せます。
これだけ見晴らしが良ければかなり遠方からでも敵の動きを察知する事が出来たでしょうね。
今現在、大分の中核都市として繁栄する中津を見ると 官兵衛がこの地に城を築いたのは正解だったかなぁ、と・・・。
余談ですが、小説なんかでは福岡城に天守が無いのは、幕府の警戒の目をそらす為とか言われてます。私は天守を築く必要が無かったと思ってます。なにしろ福岡の市街地はこれと言った山が無く、小山を削って作った台地に建てた城でもかなり遠方まで見渡せます。
そして中津と言えばMr壱万円♪
諭吉の旧家の写真ですが、下級武士の家ですから規模が小さく その小さな家が広角でも入りきれない程庭が狭い!
しかし小さいながらもやはり武士の家 カワヤは男女別々の作りになってました。 いや、あやかりたいもんですねぇ。

名前の由来は素人考えでは、おそらく豊前三津の真ん中って意味じゃないかと。これは裏がとれなかったです。(涙)
何故か黒田(官兵衛)孝高入部以前の歴史が見あたらないですよ、中津は・・。(T0T)


別名 扇(せん)城 築城年代 天正16年(1588)
縄張・種別 梯郭式/平城 築城者 黒田孝高(如水)
遺構 石塁・堀
復原 模擬=天守・二層櫓
国指定 ---
攻城年月日 2001/1/8

photo report:ばつまるさん


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