宇土城 udo-castle 熊本県宇土市古城町

虎口/本丸址/城の全景(左列)
本丸の石垣/石垣(右列)


別名 鶴の城 築城年代 天正17年(1589)
縄張・種別 ---/平山城 築城者 小西行長
遺構 曲輪跡・石垣 etc...
復原 ---
国指定 ---
攻城年月日 2005/5/25


【構   え】
城は、東西550m・南北500m・面積20万uの規模を誇る。
本丸は、高さ十数mの石垣を築き内堀をめぐらす。ほかに二の丸・三の丸などの郭を置き外堀をめぐらし、周囲の沼地と共に城の守りを堅固にしていた。
城跡からは、石垣・建物・門・井戸などが発掘され、瓦も多量に出土。本丸地下2mにも遺構があり、焼けた建物跡からは、鉄砲玉や鎧などが、さらに下層からは、中世・古墳時代の土器が多量に出土した。

【歴   史】
天正16年(1588)の肥後一揆勃発による佐々成政の失脚後、肥後南部の宇土・益城・八代・天草を拝領した小西行長が翌17年に築城。
宇土には戦国時代に名和氏(宇土氏)が居城(宇土古城)を構えていたが手狭であったため東の丘に新城を中心とした城下町を建設した。豊臣秀吉の家臣で吏僚派の行長は誰よりも経済に明るく、宇土川を改修して船場運河も開かれ、城下は大いに栄えた、彼は熱心なキリシタンだったので、領内にはキリシタンが急増。慶長4年(1599)には城下だけで6000人を数えたという。
文禄の役・慶長の役に際しては秀吉の命で一番隊の隊長に任命され、和平実現のために奮闘。家臣の内藤如安を北京において明国との交渉をに当たらせた。
慶長5年(1600)行長は西軍として関ヶ原合戦に参戦。このとき加藤清正は宇土城を攻めた。行長の弟の隼人が城を守っていたが、関ヶ原西端天満山北丘を背に布陣し、西軍の主力として戦った行長が敗将となり、捕らえられ処刑されたことを知ると開城した。
この後、肥後一円は加藤清正の領土となり、宇土城に城代を置いた。清正はこの城を隠居所とするために普請を行なったが、慶長16年(1611)に没し、翌17年に幕府の命で破却された。清正が宇土城を改修したとき天守が熊本城に移され、それが宇土櫓と伝えられている。また、天草・島原の乱後は徹底的に破壊され、正保3年(1648)に、熊本細川藩の支藩宇土藩が成立したが築城はせず陣屋を構えた。

【攻城記】
宇土城跡は破壊が激しく、他の郭は耕地化墓地化し、本丸跡以外お城の雰囲気が窺えませんね。
肝心の本丸跡もグランド化し、ゲートボール場へ。本丸の奥には歴史的評価が低過ぎる小西行長像。文官としての働きもさる事ながら武将としても相応の仕事をしたのに、武闘一派に嫌われたお陰で評価の低い行長。なにかと比較される加藤清正が英雄型で人使いも上手かったから評価低いのでしょうが、清正の政治は調べれば調べる程行長より劣るぞ!

photo:ばつまるさん


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