熊本城 kumamoto-castle |
熊本県熊本市本丸 1-1 |
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別名 |
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銀杏(いちょう)城 |
築城年代 |
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天正16年(1588) |
縄張・種別 |
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梯郭式/平山城 |
築城者 |
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加藤清正 |
遺構 |
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石垣・堀・櫓11・土塀・門 etc |
復原 |
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大天守・小天守 |
国指定 |
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特史 重文=宇土櫓・十四間櫓他3基 不開門他総12門
etc |
攻城年月日 |
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2001/1/28 |
【歴 史】
天正16年(1588)佐々成政が九州方面鎮定に失敗し豊臣政権から失脚すると、変わって肥後国を二分し、宇土城に24万石小西行長、隈本城に25万石加藤清正が入封した。関ケ原の合戦で行長が西軍について自滅したので、その領地も取り込み54万石の太守となった。
慶長6年(1601)清正が7年がかりで堅固かつ豪壮な実戦重視の城郭を築き、名前も「隈本」から「熊本」に改めた。
東西1.5km南北2kmの壮大な敷地の中心に本丸を置き、5階以上の天守2基(大天守・小天守)に相当する櫓が8基、櫓群高石垣上に48基そびえていた。
石垣は他の城に傑出しており、特別な構築方法は”清正石垣”と呼ばれ、優れた工法、高さ、美しさが極まる。
慶長16年(1611)清正が没し、その子忠広が継いだが、寛永9年(1632)領地没収命により出羽荘内藩へ配流された。
清正以来の豊臣家に対する忠誠が遠因となり、忠広自身の素行にも問題があったとされるが、外様大名取り潰し政策の犠牲になったとの見方が有力だ。
次に豊前小倉の細川忠利が肥後54万石で入封。11代238年継承し明治に至る。
規模壮大を誇った城も西南戦争で原因不明の火が内部から出て天守閣はじめ建造物の大半を焼失した。
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photo:ばつまるさん・shing02さん/上1葉(右)・MOUTHPEACEさん/上1葉(左) |
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