熊本城 kumamoto-castle 熊本県熊本市本丸 1-1
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諸櫓
飯田丸五階櫓/熊本城の復元工事に伴い2005年から公開が始まった。諸櫓の一種。
「石垣の上には平屋の櫓が築かれ、その長さや管理した人物の名などが付けられています。要所ごとに槍を出して突いたり、矢や弾丸を発射する狭間と呼ばれる小型の窓や、石垣を登ってきたきた敵に石を投げるための石落としなどが設けられ、砦としての役割を担っていました。櫓が連なり、創建当時の豪壮な様を見ることができるのが、東竹の丸。国指定重要文化財の平櫓、五間櫓、四間櫓、十四間櫓、七間櫓、田子櫓、源之進櫓などが現存し、中でも、東北の隅にある東十八間櫓・北十八間櫓は、20mにもなる場内屈指の高石垣の上に建つ櫓として知られています。」<パンフレットより>
二様の石垣
この石垣は隅が2ヵ所あり、反りが著しく異なっているのが特徴で、ゆるやかなカーブは築城当初の加藤清正時代のものと考えられ、もう一方は細川時代に入っての増築ではないかといわれる。石垣積技術の変化が解る重要な資料だ。
石垣
曲線は”扇勾配”と称される。採用した理由は、城地に阿蘇山の火山灰が堆積層があり、岩盤がまったくないところから、石垣の裾を広くして勾配をゆるめ、広い底面と石と土の摩擦力によって巨大な建物と石自体を支えるようにしたもの。
大天守・小天守
石垣より大きくせり出した構造で、一階床張り部分には忍(しのび)返しの鑓穂(やりほ)が並ぶ。日本3名城(大阪城・名古屋城)のひとつに数えられる。天下普請(諸大名の助役築城)の城ではなく、戦国大名一の築城名手加藤清正が単独で築いた城。
宇土(うど)櫓
3層5階の最上階に高欄(こうらん)めぐらした桃山初期の様式。屋根にたるみがなく直線的な破風をもち、黒塗りの壁と調和して重厚な風格ある。


別名 銀杏(いちょう)城 築城年代 天正16年(1588)
縄張・種別 梯郭式/平山城 築城者 加藤清正
遺構 石垣・堀・櫓11・土塀・門 etc
復原 大天守・小天守
国指定 特史 重文=宇土櫓・十四間櫓他3基 不開門他総12門 etc
攻城年月日 2001/1/28


【歴   史】
天正16年(1588)佐々成政が九州方面鎮定に失敗し豊臣政権から失脚すると、変わって肥後国を二分し、宇土城に24万石小西行長、隈本城に25万石加藤清正が入封した。関ケ原の合戦で行長が西軍について自滅したので、その領地も取り込み54万石の太守となった。
慶長6年(1601)清正が7年がかりで堅固かつ豪壮な実戦重視の城郭を築き、名前も「隈本」から「熊本」に改めた。
東西1.5km南北2kmの壮大な敷地の中心に本丸を置き、5階以上の天守2基(大天守・小天守)に相当する櫓が8基、櫓群高石垣上に48基そびえていた。
石垣は他の城に傑出しており、特別な構築方法は”清正石垣”と呼ばれ、優れた工法、高さ、美しさが極まる。
慶長16年(1611)清正が没し、その子忠広が継いだが、寛永9年(1632)領地没収命により出羽荘内藩へ配流された。
清正以来の豊臣家に対する忠誠が遠因となり、忠広自身の素行にも問題があったとされるが、外様大名取り潰し政策の犠牲になったとの見方が有力だ。
次に豊前小倉の細川忠利が肥後54万石で入封。11代238年継承し明治に至る。
規模壮大を誇った城も西南戦争で原因不明の火が内部から出て天守閣はじめ建造物の大半を焼失した。

photo:ばつまるさん・shing02さん/上1葉(右)・MOUTHPEACEさん/上1葉(左)


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