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古今の英雄をご紹介


千葉常胤<tsunetane chiba>
□千葉県千葉市亥鼻町 千葉城
□元永1−建仁1(1118-1201)
□平安末・鎌倉初期の武将

鎌倉幕府草創期の有力御家人。下総国千葉に住まいした。
治承4(1180)源頼朝が石橋山の合戦に敗れ安房に逃れると、のちにこれに従い、鎌倉に拠るべきことを説いた。以後頼朝に重用され、駿河国富士川に頼朝追討使平維盛の軍を破った頼朝が直ちに京都に攻め上ろうとしたときにも、東国経営の緊要性を説いてやめさせたといわれる。ついで木曽義仲を討ち、さらに西海での平氏との戦いに老齢ながら奮戦するなど多くの軍功をたて、下総の守護職に補せられた。
建久3('92)頼朝が征夷大将軍に任ぜられると、公卿の政所下文にならって家司の署名のみの下文を出すことになったが、常胤はあくまで頼朝の判を要求したという。この逸話は、この時代の御家人と将軍の主従関係を示すと同時に彼の性格を示すものである。
正治1('99)諸将とともに梶原景時を弾劾した。
photo:あられ
平知盛<tomomori-taira>
□山口県下関市みもすそ川町 みもすそ川公園
□仁平1−文治1(1151-85)
□平安後期の武将 平清盛の4男 母は平時子

平治1(1159)わずか8歳のとき蔵人となり、徐々に出世して'80左兵衛督・春宮大夫・新院御厩別当となる。同年源頼政を宇治に破り、養和1('81)征夷大将軍として左中将平清経・小松少将平有盛ら3万余騎をもって源行家を尾張洲俣・美濃板倉の合戦で破る。参議・従二位権中納言にすすむ。寿永2('83)源義仲の上洛のとき粟津での戦いに敗れ、京を捨て大宰府に落ち延びた。讃岐の屋島を拠点に山陽・南海両道と瀬戸内海に勢力圏をつくり、義仲の臣足利義清を備中水島の合戦で、そして源行家を播磨室山の合戦で破った。文治1('85)壇ノ浦で入水。
「平家物語」では知盛を平家一門の尚武剛勇の武将として描く。
photo:ばつまるさん
土肥実平<sanehira doi>
□神奈川県足柄下郡湯河原町 湯河原駅前
□?−建久2(?-1191)
□平安末・鎌倉初期の武将


土肥実平については「土肥氏館跡」を参照。


夫人は武人の夫をよく助け、石橋山合戦の敗北で落ち延びる源頼朝主従のために、農民に姿を変え、敵を欺くと彼らが隠れ潜む土肥郷杉山の洞窟に食料を運び、消息を伝えたという。”こころさかさかしき”と「源平盛衰記」に記されている。
photo:荒賀源外さん
武田信玄<shingen takeda>
□山梨県甲府市甲府駅前 躑躅ヶ崎館
□大永1−天正1(1521-73)
□戦国時代の大名

武田氏の祖は清和源氏で、八幡太郎源義家の弟新羅三郎義光とする。後三年の役で義光が戦功をあげ、後冷泉天皇から鎧を賜ったとき、大袖の金具についていた割菱を代々家紋とした。
天文5(1536)元服。'41父信虎を追放して自立し、'42信濃国諏訪を、'45伊那をとり、筑摩郡の小笠原長時、埴科郡の村上義清を圧迫する。'49義清と上田原に戦い敗れたが、同年塩尻峠に長時を破り、'51長時を越後に追い、ついで''53義清を越後に走らせる。同年以後弘治1('55)・'57・永禄4('61)・'64の5回川中島に上杉謙信と戦い北信濃を制圧する。
'54駿河国善徳寺で北条氏康・今川義元と会盟し、'58以降氏康を助けてしばしば関東に出兵し謙信と対抗する。義元敗死後、今川氏との和睦を説く嫡子義信と対立、'67自殺させ、'68・'69駿河に進出する。その間、後北条氏と抗争し駿河および小田原に戦い、西上野を版図に収める。
元亀2('71)北条氏政と和し、将軍足利義昭、本願寺の顕如、浅倉氏・浅井氏らの反織田信長勢力と結び、'72西上の大軍をおこす。遠江国三方ヶ原で徳川家康を破り、転じて三河国野田城攻囲中に発病、'73、帰国の途中信濃国伊那の駒場で死んだ。
卓抜な戦略・戦術家。家臣団の編成と統制、検地・「信玄堤」に代表される治水とう、領国経営にみるべき施策が多い。
photo:あられ
天海<tenkai>
□埼玉県川越市小仙波町1-20-1 喜多院
□天文5?−寛永20(1536?-1643)
□江戸前期の天台宗の僧で号は南光坊

俗説に盧名(ashina)氏の氏族三浦氏の出身といわれるが前半生は謎が多い。
11歳で薙髪受戒して台密の学を学ぶ。14歳から諸国名山霊区を遍歴し、比叡山・三井寺・興福寺で修行。永禄年間(1558−'69)甲斐国武田氏に寄ったが、のち蘆名盛重の招きに応じて会津へ帰り、常陸国不動院をはじめ関東諸寺に住む。さらに比叡山東塔の南光坊に移ったが、慶長13(1608)徳川家康に招かれ駿府へ赴き、天台論議をかさねて帰依をうけ、川越の喜多院や下野国の日光山主宰した。とくに山王一日神道の進言は家康の信任を深め、家康の死後、久能山から日光山に改葬して神号を贈った。
寛永1('24)秀忠の命により、江戸上野忍ヶ岡に比叡山寛永寺を開創、3代家光まで幕府の信頼をうけた。
photo:あられ
豊臣秀吉<hideyoshi toyotomi>
□岐阜県安八郡墨俣町 墨俣一夜城資料館 墨俣城(上) 滋賀県長浜市 長浜城(下)
□天文5−慶長3(1536-'98)
□豊臣政権の主権者 関白

尾張中村の貧しい農民子として生まれた。亡き父の残した永楽銭一貫文で木綿針を買い、行商をしながら駿河をめざす。天文20(1550)今川家の将松下加兵衛に仕え、お納戸役に出世したが同僚にねたまれ尾張へ戻る。'53織田家の小者頭をつとめる友人の推薦で草履取りとして信長に仕え、次第に重用される。永禄7('64)の東美濃攻めでは土豪たちの友好に手腕を発揮し、永禄9('66)に、信長家臣団で誰もなし得なかった墨俣城を築き、稲葉城攻略に多大な功績をあげた。元亀1('70)羽柴姓を名乗る。また同年の朝倉義景攻めでは、浅井長政の謀反により信長が越前金ケ崎で危機に立たされたとき、殿軍をかって出て命をかけて信長を京へ逃がし名をあげた。浅井氏の旧領近江三郡12万石を与えられ、長浜城を築く。'77中国地方平定の主将として出陣。姫路城を拠点に毛利氏の属城を攻略、三木城・鳥取城を兵糧攻めで落とした。'82備中高松城包囲中に陣中で本能寺の変を知り、ただちに毛利氏と和睦を結ぶと、豪雨の山陽道を姫路へと兵を返した。昼夜疾走の「中国大返し」として有名。山崎の合戦で明智光秀を倒し、信長の弔い合戦に勝利。織田家の跡目を決める清洲会議や信長の葬儀で主導権を握り、織田家の家老柴田勝家と対立。賤ヶ岳合戦・北ノ庄攻めで勝家を滅ぼす。
'84尾張国小牧・長久手に織田(北畠)信雄・徳川家康と戦い、のちに和睦。'85根来・雑賀衆を討ち、四国の長曾我部元親を屈服させる。藤原姓を称し十一位関白となる。天下人の拠点大坂城完成。五奉行をおき公武を統括する体制を作る。そして豊臣姓勅許。'86には太政大臣となる。'87九州征討軍を出し薩摩の島津氏を征し、'90後北条氏を滅亡させ、奥州を平定して全国統一を成した。同年関白を辞して養子の秀次に譲り、太閤となる。'87以後朝鮮・明国征服を策し文禄1('92)朝鮮へ出兵したが、李舜臣率いる朝鮮軍の活躍や民衆の抵抗にあい戦局は不利となり講和を図ったが上手くいかず、慶長2('97)再度派兵。これを文禄・慶長の役という。'98実子秀頼の将来を案じつつ病没。
photo:Solidさん
photo:ばつまるさん
長宗我部元親<motochika cyousokabe>
□高知県高知市長浜 鎮守の森公園
□天文8−慶長4(1539-99)
□安土・桃山時代の武将

長宗我部国親の子。永禄3(1560)父の死により家督を継ぐ。本山氏・吉良氏・安芸氏といった土佐の豪族を滅ぼす。天正2('74)土佐国司一条兼定を豊後に追放、子の一条内政を長岡郡大津城に移すと、名実ともに土佐一国を統治することに成功。以後、阿波・讃岐・伊予を攻略し、'81には内政を伊予の法華津に追放。'85には四国全土を平定した。ところが同年、豊臣秀吉の四国出兵が行なわれ、秀吉の弟羽柴秀長を大将とする征討軍に敗れて降伏。土佐一国のみの所領を許される。
'86秀吉の九州出兵で戦功があり。'88秀吉より羽柴姓を許され、土佐守となる。文禄1('92)文禄の役、慶長2('97)慶長の役に従う。'99京都伏見の邸で没した。
photo:たかしPart3さん
徳川家康<ieyasu tokugawa>
□愛知県岡崎市康生町 岡崎城(上) 東京都墨田区横綱 江戸東京博物館(下)
□天文11−元和2(1542-1616)
□江戸幕府最初の将軍

三河国岡崎城主松平広忠の嫡男。織田信秀(信長の父)に攻められ駿河国の今川義元に応援を請うため父に人質に出されるが、途中で織田家に捕らえられ6歳より3年間織田家で過ごし、続いて8歳から12年間今川家の人質となる。
永禄3('60)桶狭間の合戦で義元が討たれると岡崎城に戻り自立。三河の一向一揆制圧後織田信長と同盟を結び、越前攻め・姉川の合戦で奮闘。元亀3('72)上洛する武田信玄と三方ヶ原で激突、大敗を喫する。信玄亡き後武田勝頼と長篠で戦い武田家を衰退させる。天正10('82)本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると、信長の支配下にあった旧武田領を手中におさめた。
天下人となった豊臣秀吉と対峙し、賎ヶ岳の合戦では中立、小牧長久手合戦では織田信雄と組んで勝利。やがて和睦し、小田原征伐では先鋒をつとめ戦功で関八州250万石で関東に封じられる。秀吉の死後は関ヶ原合戦で石田三成率いる西軍を破り天下の実権を握った。
慶長8(1603)征夷大将軍に任ぜられ江戸に幕府を開き、大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼした。
photo:...(上)
photo:あられ(下)
田中吉政<yoshimasa tanaka>
□福岡県柳川市坂本町
□天文18−慶長14(1549-1609)
□安土桃山・江戸前期の武将

近江の武将・田中重政の子。はじめ宮部継潤に仕え、のちに豊臣秀次に属したが、その死後豊臣秀吉に仕える。天正18(1590)10万石で岡崎城主となる。
慶長5(1600)関ヶ原合戦では東軍に味方し、石田三成を捕らえ捕虜とした。この功で32万石を与えられ、柳川藩主(柳川城)となる。
photo:ばつまるさん
藤堂高虎<takatora toudou>
□滋賀県犬上郡甲良町 高虎公園(上)三重県津市丸の内 津城(下)
□弘治2−寛永7(1556-1630)
□江戸前期の武将

近江国甲良在士に生まれる。父が浅井氏の家臣だった関係から浅井長政に仕え、のち近江国山本の阿閉政家・同高嶋の磯野秀昌・織田信澄に仕え、ついで羽柴秀長に仕えて、但馬の一揆・賤ヶ岳の戦などに功をたて、5千石、従五位下佐渡守に叙せられる。秀長没後、秀長の猶子大和中納言秀俊(のちの小早川秀秋)の後見となり、文禄の役には秀俊に代って出陣。秀俊が年若くして没するや高野山にのぼり剃髪。豊臣秀吉はその才を惜しんでこれを招き、伊予国に7万石を与え、宇和島城主とした。
秀吉没後は徳川家康に近づき、その信を得て、謀議にあづかり、慶長5(1600)関ヶ原合戦後、伊予半国20万石、今治城主、'60年2万石加増、'08伊勢国津(安濃津)に転封、伊賀国と伊勢8郡合せて22万900石余。元和1('15)に5万石加増。
近江国膳所城、丹波国篠山城の縄張をおこなうなど築城にも巧みで、また領内の民治にもつとめ、津藩の基礎をつくった。
photo:Solidさん(上)
photo:シリウスさん(下)
千代-見性院<chiyo>
□高知県高知市丸の内 高知城
□弘治3−元和3(1557-1617)
□安土桃山・江戸前期 山内一豊の妻

浅井氏家臣若宮喜助友興の娘、母は石川小四郎の娘。近江国坂田郡飯村出身。
幼い頃両親を失い、叔母の嫁ぎ先美濃の豪族不破市之丞重則を頼る。元亀・天正初年ごろ、山内一豊に嫁す。一豊のために鏡箱から黄金をだして馬を買った話しは有名。天正13(1585)江北地震で娘を失い、禅宗に帰依。'87頃、のちに湘南和尚となる捨子を養育する。関ヶ原の合戦直前の好処置により、一豊の行動を誤らせなかった。戦後、一豊とともに土佐に入国。慶長10(1605)一豊死去の翌日、妙心寺の単伝士印より見性院の法号を受ける。'06土佐を去り、京都桑原町に閑居した。
photo:ばつまるさん
伊達政宗<masamune date>
□宮城県仙台市青葉区 仙台城
□永禄10−寛永13(1567-1636)
□戦国時代・江戸前期の大名

天正13(1585)父が二本松城主畠山義継に討たれると、政宗は盧名(ashina)・佐竹を攻め、二本松を討つ。'89盧名を滅ぼし越後・三春・出羽・白河に版図を拡大。'90小田原出兵にさいして豊臣秀吉にくだり、所領を没収され、新たに米沢の地を与えられ米沢城へ移封。'91大崎・葛西の一揆を討ち、奥州岩出山へ移る。慶長5年(1600)関ヶ原合戦には東軍として徳川家康に味方し上杉景勝と戦い、白石城を攻撃。'02米沢を蒲生氏郷に譲り仙台城を築き移住し、仙台藩62万石の大名となる。
海外貿易に力を注ぎ、幕府の協力を得て'13家臣の支倉常長を遣欧使節としてローマ法王の基へ派遣したり、イスパニア貿易をしようとした。大坂の陣では天王寺で奮戦。
photo:shing02さん
豊臣秀次<hidetsugu-toyotomi>
□滋賀県近江八幡市宮内町 近江八幡城
□永禄11−文禄4(1568-95)
□安土・桃山時代の大名 豊臣秀吉の姉の子

秀吉の家来であった宮部継潤に養われ、ついで三好康長の養子となる。天正12年(1584)長久手の合戦に三河進攻の総大将に任ぜられ、途中徳川軍と戦うが大敗を喫する。'85紀伊の根来衆攻略や四国征伐に戦功を立て右近衛権中将、羽柴姓を許され近江国八幡城主43万石となる。'91小田原の役後陸奥を征し、織田信雄の旧領尾張・北伊勢を領する。
同年、秀吉の長男鶴松が亡くなると、養子に迎えられ左大臣関白となり、京都聚楽第に居を移す。文禄2年('93)秀頼誕生後は秀吉と不仲になり、自暴自棄行為あり、秀吉の側近たちと対立した。'95謀反の風評が広まり事態の収拾に失敗、官位を剥奪されたうえ高野山で自害した。子弟や妻妾30余名も京都の三条河原で処刑された。
photo:ばつまるさん
戸田氏栄<ujihide toda>
□神奈川県横須賀市久里浜 ペリー記念館
□寛政11−安政5(1799-1858)
□浦賀奉行他多くの奉行職に就く・伊豆守

深坂藩(現:岐阜県揖斐郡谷汲村)6代目当主。武蔵国生まれ。
天保14(1843)駿府町奉行、弘化4(1847)日光奉行、同年には浦賀奉行に就任。嘉永6(1853)アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが軍艦4隻を率いて来航し、久里浜に上陸して幕府に大統領の親書を渡す。翌年再びペリーが軍艦7隻を率いて来航。横浜にて「日米和親条約」結ぶ。この大事に井戸弘道と共にペリーと交渉し重要な役目を果たした。この結果、幕府は200余年続けた鎖国をやめ開国にいたった。
アメリカ側に幕府の重臣と思わせるため、本家に頼み人数や鉄砲を集めたのは有名な話し。
photo:荒賀源外さん
徳川斉昭<nariaki tokugawa>
□茨城県水戸市弘道館近く 水戸城
□寛政12−万延1(1800-60)
□江戸後期の御三家大名

長兄斉脩(なりのぶ)が没すると遺旨により水戸藩主を継ぐ。幼少から穎敏であったが、藩主となってからもすぐれた治績をあげた。
天保2(1841)藩校弘道館を設立。外国船の日本沿岸接近で、幕府に内憂外患を憂う意見封事を提出した。また、海防の必要を痛感し、兵制を改め鉄砲隊を編成するなどした。斉昭の近臣結城虎寿の訴えにより幕府から警戒されて、弘化1('44)謹慎を命ぜられた。嘉永2('49)3月許されて藩政にあたる。
'53年6月ペリーの浦賀来航により老中阿部正弘を助け、安政2('55)9月以降は隔月登城し大議に加わったが、やがて将軍世継ぎ問題がおこり、彦根藩主井伊直弼の大老就任後、井伊や溜間詰諸大名らと対立が高まり幽居させられた。
photo:あられ
トーマス ブレーク グラバー<Thomas Blake Glover>
□長崎県長崎市南山手町 旧グラバー邸
□1838-1911
□幕末の貿易商人

スコットランド出身。
万延1(1860)長崎に来日。長崎にグラバー商会を設立し、幕府や諸藩に武器・軍需品を売って巨利を得た。伊藤博文や井上馨らの欧州留学を援助。明治維新では影の活躍をした。
1865年には大浦海岸で日本初の蒸気機関車「アイアン・デューク号」を走らせた。
photo:ばつまるさん
高杉晋作<shinsaku-takasugi>
□山口県下関市 功山寺(上) 日和山公園(下)
□天保10−慶応3(1839-67)
□幕末の志士

長州藩の藩校明論館に学び、吉田松陰の松下村塾に入る。江戸に出て昌平黌(syouheikou)に学び、帰藩後は明論館で講義をした。文久1(1861)小姓役に進み藩主に従い江戸に出る。長井雅楽の航海遠略索を批判、翌年7月幕艦に便乗して上海で太平天国を実現する。帰国直後に長州藩の尊皇攘夷派同士と品川御殿山の英公使館を焼き討ちして江戸から逃げた。京都で落髪し隠遁するが、'63藩主から馬関における攘夷実行を命ぜられ、奇兵隊を組織して外国勢と戦う。同年「8月18日の政変」で京都を追われ、その挽回を策して進撃を主張する来島又兵衛らを制止しようとし、かえって京坂へ出奔して脱藩の罪を問われ野山の獄入りとなる。
元治1('64)前年の攘夷への報復である四国連合艦隊の下関砲台占拠の講和の使者に起用された。同年禁門の変後幕府の長州征伐に破れた藩が、和議をすすめたことに反対し九州に亡命。やがて下関に帰ると挙兵し、諸隊の応援を得て藩政府に勝利、藩論を討幕に転換させた。その後長州再征には全藩兵を指揮し幕軍に勝利したが、翌慶応3('67)4月に病死した。
明治24('91)贈正四位。
photo:ばつまるさん
東郷平八郎<heihachirou tougou>
□鹿児島県鹿児島市 祇園之州公園(上)
/神奈川県横須賀市 三笠公園 戦艦三笠(下)/市内衣笠城
□弘化4−昭和9(1847-1934)
□明治・大正期の海軍軍人(元帥)

薩摩藩士として薩英戦争や戊辰戦争に参加。明治3−11(1870-78)イギリスに留学後、天城・比叡とう軍艦の副艦長・艦長を努めた。'90呉鎮守府参謀長・'95常備艦隊指令長官を経て、'96海大校長となる。
1903第1艦隊兼連合艦隊司令長官に就任し、日露戦争時には、旅順港封鎖作戦を行い、ロシア海軍極東艦隊を黄海海戦で、またバルチュク艦隊を日本海戦で全滅させた。
戦後は軍令部長、大正2('13)元帥、日露戦争の戦功で国民的英雄となり、海軍部内でも大きな発言力をもった。昭和4('29)ロンドン軍縮条約の承認にあたり、条約に強固に反対。軍の元老的存在であった。
photo:ばつまるさん(上)
photo:SPOOKさん(下)
高浜虚子<kyoshi takahama>
□東京都調布市深大寺元町 深大寺
□明治7−昭和34(1874-1959)
□明治・大正・昭和期の俳人・小説家 愛媛県出身

正岡子規に師事。明治29(1896)「国民新聞」の俳句選者となり、'98「俳句入門」を出版。「ホトトギス」を主宰。1907ごろから小説に力を注ぎ、「風流懺法」「斑鳩物語」「大内旅館」とうを発表。'08短編小説「鶏頭」・長編小説「俳諧師」、'09「続俳諧師」を出版。大正2('13)俳壇復帰を決意し、「俳句の作りやう」「進むべき俳句の道」などの評論集を出版。定型と季題の遵守、客観写生の尊重を説いた。
その後、俳句は”花鳥諷詠”の詩と規定、終始俳壇における保守的役割を果たした。子規のあとを受け継ぎホトトギス派の隆盛に寄与、多くのすぐれた俳人を育成した。
photo:あられ
滝廉太郎<rentaro taki>
□大分県竹田市竹田 岡城跡
□明治12−36(1879-1903)
□明治時代の作曲家・ピアノ奏者 東京出身

高等師範学校付属音楽学校(現:東京藝術大学)専修科で学ぶ。明治32年(1899)20歳で東京音楽学校助教授に就任。愛唱歌「花」を含む歌曲集「四季」や「荒城の月」とうを作曲して日本の芸術歌曲を創始したほか、ピアノ奏者としても優れた技量を示した。1901文部省の命によりドイツのライプツィヒ音楽院と王立音楽院に留学。将来の大成が期待されたが、肺結核となり翌年帰国。大分で24歳という若さで没した。
photo:寝っ駆さん


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