衣笠城 kinugasa-castle 神奈川県横須賀市衣笠町

城址の碑/「衣笠城遺址」なにかヘン?(左列)
古いお墓/城跡に建つ大善寺(右列)


市内の三笠公園

古いお墓
寺の前にはこのように古いお墓... あるいは道祖伸も祭られている。
石垣は当時の物であるはずもないが、かなり古いもので、お墓は、この反対側にも十数基あり、おそらくはこの城と共に命を散らした武士の魂を祭っているのでありましょう。


別名 --- 築城年代 康平年間(1058〜64)
縄張・種別 ---/山城 築城者 三浦氏
遺構 土塁・空掘
復原 ---
国指定 ---
攻城年月日 2003/11/05


【構   え】
三浦半島の中央部を南に流れる平作川の支流大矢部川の上流に位置し、谷奥に馬蹄郭が配置されている。
その南に佐原城と大矢部城、北に小矢部城があり、これらを総称して衣笠城といったともいわれ、城郭は半島の丘陵一帯に位置し、丘陵状の一番裾が城の大手口で、ゆるやかな坂を登って不動滝がある。
居館は平坦部(城址案内板のある場所)にあったと推定され、一段上に前述べの不動滝と別当大善寺があり、さらに裏山がこの城の最後の拠点となる詰めの城で、金峯山蔵王権現を祀った社が存在した。
また西側の最も高い場所に、一般に物見岩と呼ばれる大岩があり、そのさらに西が急峻な谷。
要害の地形を利用して一部に土塁や空掘の跡が残っている。

【歴   史】
築城者である三浦氏の出自は相模国(神奈川県)三浦郡三浦荘を名字の地とする武士団で、坂東八平氏のひとつに数えられる家柄だといわれる。
平安時代末期、三浦義明のとき、相模国の介という国司四等官の次官に任ぜられ、その後子孫は「三浦介」と称した。
治承4年(1180)伊豆で源頼朝が平家打倒の旗を挙げたが、石橋山の合戦で平家方の大庭景親らに敗れ、真鶴岬から海路、安房(千葉県南部)へと逃れ、その際、挙兵に呼応した三浦義明・義澄父子は頼朝に合流しようとするが悪天候が原因で果たせなかった。その結果、一族で衣笠城に立てこもり、平家軍(畠山重忠・河越重頼・江戸長重とう)を迎え撃つこととなる。
三浦勢もよく防戦したが、450(三浦軍) Vs 3000(武蔵連合軍)では多勢に無勢、城は落ち三浦一族は安房へと敗走。
ここで頼朝と合流できた三浦氏は、頼朝が再起して幕府を樹立すると功臣として重く用いられることとなる。

城は宝治元年(1247)に廃城。

【攻城記】
自転車で鎌倉=>逗子=>葉山=>金谷=>衣笠=>と走行。
葉山から衣笠は三浦半島を横断するため、山あり谷あり!
最後の衣笠城への上り口は住宅街の細い路地。
ところが、その路地を上ってゆくとまるで戦闘機の急上昇のような上り坂!
途中で自転車を降りて押してあがるも、それも途中まで。(汗)
最後は自転車を路肩に止めて、GPS を頼りに足で登った頂上付近に衣笠城址はありました。
住宅街からは100mも離れていないのに、衣笠城址はうら寂しい山の中。
このギャップが神奈川のそして 三浦半島の面白さかもしれません。
30分ほど散策と写真撮影をして帰り道を急いだのですが、往路と 同じルートでは体力が持たないので、衣笠インターを右折してそのまま相模湾側に出るルートを取る。
これなら最初の1km 弱が 上りでも、海に出るまではひたすら下り。
このおかがでだいぶ時間 短縮できたけど、結局帰宅したときには真っ暗!
総走行距離58km弱。
山登りがあると疲れます。(笑い)

photo:荒賀源外さん


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