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古今の英雄をご紹介


弁慶<benkei>
□東京都中央区日本橋浜町 明治座通り
□?−文治5(?-1189)
□平安末期・鎌倉初期の僧

号は「武蔵坊」。
「吾妻鏡」「平家物語」etcにその名がみられる。
熊野別当の子で幼名は「鬼若丸」といい、仏道よりも武術にすぐれていた。
平家追討に武功をたてながら兄源頼朝に疑われ追われる身となった義経に従う。奥州の藤原氏を頼って逃れる途中の安宅関では山伏姿に身をかえ、義経を強力(案内人)にしたてて通行しようと試みるが、関守富樫左衛門の詰問を受け怪しまれ、お前がドジなために疑われたと、泣きながら主人を金剛杖でなくりつけたことで難を逃れる。この話しは「勧進帳」として歌舞伎とうで有名だ。
やっとのことで奥州平泉に至ったが、隠れ家の衣川館(ころもがわのたて)を追手の頼朝に味方した藤原泰衡に不意に攻撃され、矢を全身に受けながらも最後まで頼朝をかばった。
photo:あられ
畠山重忠<shigetada hatakeyama>
□埼玉県大里郡川本町畠山 畠山館(上) 比企郡嵐山町菅谷城757 菅谷館(下)
□長寛2−元久2(1164-1205)
□鎌倉前期の武将

武蔵国秩父庄司重能の二男に生まれ幼名は氏王丸という。治承4(1180)石橋山合戦では父が平氏方であったため平氏につたがのちに源頼朝に従う。元暦1('84)源義経の源(木曽)義仲討伐に従い宇治川合戦での戦功が認められ、文治3('87)代官の非法により没収されていた所領を千葉氏を介して許される。その後奥州征伐で活躍するなど戦功が多く鎌倉武士の模範とされた。
平素より不仲であった重忠の嫡子重保と平賀朝雅(北条時政の後室牧の方の女婿)とが酒の席で争ったのが原因で、朝雅が牧の方に讒言する。時政は牧の方の言葉を信じ畠山父子に謀反の意志ありと誅殺することを決めた。父子は北条義時の軍と武蔵国二俣川で戦い、戦死した。

写真上は、六甲山塊を越えて福原の背後を奇襲する「ひよどり越え」、その中に前足を傷めた愛馬の三日月を背負って駆け下る重忠が!その雄姿を映したもの。

源平合戦古戦場/おごる平家はひさしからず 参照。
photo:あられ(上)
photo:華帯畄さん(下)
北条早雲<so-un_houjou>
□神奈川県小田原市 小田原駅西口 小田原城
□永享4−永正16(1432-1519)
□室町後期の武将・伊勢新九郎

出自不詳であるが、伊勢平氏・京都伊勢氏・備中伊勢氏の3説がある。
妹の今川義忠(義元の祖父)の室北川殿が氏親を生み、外戚の地位を得る。文明8(1476)義忠が激しく抵抗する遠江国人の横地氏・勝間田氏の残党に塩買坂で襲われ亡くなると、今川氏の内紛を調停して氏親を立て、駿河国興国寺城主となる。延徳3('91)伊豆堀越公方家の内紛に乗じて足利茶々丸を殺し韮山城を築いて伊豆国を掌握する。ついで上杉定正(扇谷)と結び上杉顕定(山内)に対抗、明応3('94)武蔵国高見原で敗戦。'95箱根山中に鹿狩を口実に小田原城に夜襲をかけ、大森藤頼を追って相模に進出する。永正1(1504)武蔵国立河原に顕定と戦い、'09顕定の越後出兵中、武蔵国権現山で両上杉軍に敗れる。'12上杉氏の重臣三浦義同を岡崎城から追い鎌倉を収め、玉縄城を築く。以後扇谷朝良・太田資康(道灌の長男)の攻撃を退け、'16新井城の義同を滅亡させ相模一国を制圧する。
'18隠居。家督を氏綱に譲り、'19没した。
photo:荒賀源外さん
フランシスコ−ザビエル<Francisco_de_Xavier>
□山口県山口市 ザビエル記念聖堂
□1506−1552
□カトリック教会の宣教師 イエズス会の創設メンバー

スペインとフランスの間に横たわるピレネー山脈の西麓に位置するザビエル城に生まれた。この地方にあったナパール王国に仕える名門の家柄。ナパール王国がやがてスペインに併合され、ふたりの兄はスペインへの抵抗運動家となったが、ザビエルは学者を志しパリ大学に入学した。ここでイグナチヲ・ロヨラと出会い、彼を中心に結成されたイエズス会のメンバーとなった。カトリックの信仰強化と喜望峰以東の異教克服のため教皇特使としてインドに向かった。1542年5月ゴアに着く。その東方伝道の旅の途中、マラッカで出会ったアンジロー(ヤジロー?)という日本人を通じて、日本の国情や国民性を知り、伝道のため来日を決意。天文18年(1549)鹿児島に上陸したらしい。
この後、平戸に移り、やがて京都へ上った。そのころの都は応仁の乱により荒れ放題、まだ復興がされておらず、比叡山入山もできず、天皇への謁見も許されなかった。あきらめて一旦平戸へ戻り、あらためて山口を訪れた。大内義隆の庇護のもと4ヶ月にわたる布教活動は大きな成果を挙げた。やがてインドのゴアへ戻り、中国への布教活動をめざす。広東に近い上川島で入国の機会を待っているときに熱病にかかり47歳の生涯を終えた。
photo:ばつまるさん
蜂須賀正勝<masakatsu hachisuka> ※右は日吉丸
□愛知県岡崎市岡崎 矢作橋 岡崎城
□大永6−天正14(1526-'86)
□戦国・安土桃山の武将

蜂須賀正利の二男で幼名は小六。はじめ美濃の斎藤道三に仕え、ついで岩倉城主織田信賢・犬山城主(犬山城)織田信清に属す。のちに木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)の将として永禄9(1566)墨俣城築城に功あり、これ以後秀吉の近臣として近江・越前・播磨・中国筋を転戦。天正10('82)高松城開城に力を尽くし、また山崎の戦(秀吉vs明智光秀)に勝利すると、中国へ出向き毛利氏と境界協定を結ぶことに成功。この功により子の家政に阿波一国が与えられた。
野武士の頭という説があるが真相は...。
photo:ホントに申し訳ありません。どなたにいただいたのか...
本多忠勝<tadakatsu honda>
□愛知県岡崎市康生町 岡崎城
□天文17−慶長15(1548-1610)
□安土桃山・江戸初期の大名

本多忠高の長男で通称平八郎。幼くして徳川家康に仕え、永禄3(1560)13歳で尾張国の大高城攻略(今川義元vs織田信長)に初陣。三河一向一揆、姉川の合戦(織田・徳川連合軍vs浅井・浅倉同盟軍)、長篠合戦(長篠城)、高天神の戦(武田氏vs徳川軍所属小笠原与八郎)とうで戦功をあげ勇者と称えられ、徳川四天王(酒井忠次・榊原康政・井伊直政)のひとりとして名を馳せた。京坂に遊んでいるとき本能寺の変を聞きつけて、家康に一刻もはやく岡崎城へ帰ることを進言。
天正18('90)家康が関東へ下ると、上総大多喜城に10万石を給された。関ヶ原合戦では2代将軍秀忠に軍に属し榊原康政とともに功名をあげ、慶長6(1601)には伊勢桑名城15万石を給わった。武功派の宿老として徳川氏を支えてきたが、家康隠居後は本多正信・正純父子や大久保忠隣といった能吏により疎まれた。幕政の中枢から遠ざけられて桑名で亡くなった。
57回もの合戦に参加して、まったく身に傷痕がなかったという。
photo:ホントに申し訳ありません。どなたにいただいたのか...
別所長治<nagaharu bessyo>
□兵庫県三木市上の丸町 三木城
□永禄1−天正8(1558-80)
□戦国・安土桃山時代の武将

播磨国東部の8郡を支配し美嚢郡三木城を本拠とする。天正初期、中国地方進出を策する織田信長に属したが将来を案じ、天正6年(1578)毛利氏と結び離反した。中国攻めの主将羽柴秀吉に抗戦し、秀吉の中国平定を妨害。秀吉に城を包囲されること2年、糧道を絶たれ、城兵は飢餓に苦しんだ。'80秀吉の攻撃に耐え切れず、弟友之らと自殺し城兵の命に代えることを願い許された。これにより秀吉の播磨平定がなったという。
photo:ばつまるさん
蜂須賀家政<iemasa hachisuka>
□徳島県徳島市城ノ内 徳島城
□永禄2−寛永15(1559-1638)
□安土桃山・江戸前期の武将

尾張国蜂須賀村の土豪蜂須賀正勝の子。阿波藩主。
天正3(1575)長篠合戦以来、毛利攻略や紀伊国雑賀一揆鎮圧に功をあげた。'85四国攻略のこうによって阿波国17万6千石を封ぜられる。関ヶ原の戦には西軍に加えられたが病気と称して応ぜず(東西の板挟みになり苦しんだようだ)、豊臣家に阿波一国を返上し高野山へのぼってしまった。子の至鎮(よししげ)は浪人の立場で東軍に加わり旧領を回復。大坂の陣では戦功めざましく徳川幕府より淡路一国も加増され25万6千石となる。
photo:ばつまるさん
平田靱負<yukie hirata>
□鹿児島県鹿児島市平之町 平田公園
□宝永1−宝暦5(1704-1755)
□薩摩藩の家老 木曽三川の治水工事総奉行

http://www.city.kaizu.lg.jp/syakaikyouikubunkaka/gallery_6.jsp

http://www.cbr.mlit.go.jp/kisokaryu/chisui/main.html

※参考資料がないので上記リンクさせていただきました。
photo:ばつまるさん
ペリー(マシュー・カルブレイス・ペリー)<perry>
□神奈川県横須賀市久里浜 ペリー公園
□1794−1858
□アメリカ東インド艦隊司令長官

アメリカのロードアイランド州サウスキングストン生まれ。
父や兄も海軍の軍人。ペリーも若いころに海軍に入隊し数々の戦功を立てて、日本遠征のアメリカ東インド艦隊司令長官に任命された。当初12隻の艦隊で日本に来る予定だったが、建造が間に合わなかったり、他所の地域に回されたり、故障したりと思うように船が集まらなかった。結局ミシシッピー号1隻で東海岸ノーフォークを出立し、1853年途中でなんとか4隻の艦隊になった。ちなみに翌年2回目のときには7隻。ペリー来航の7年前に前任のビッドルが大統領の親書を携え来航したとき、幕府に対して無理強いはせず、自分の船に招いたりして友好的な関係を築こうとした。ペリーはビッドルの外交は失敗だったと考え、強固な態度で交渉に臨んだ。その態度を見た乗組員から「熊親爺」とよばれたという。
浦賀奉行戸田氏栄参照。
余談だが、黒船で日本に乗り込んだペリーだが、帰国はアメリカの軍艦で香港へ、イギリスの郵便船でアフリカのカイロへ、そこから汽車でアレキサンドリアへ、船でイタリアのトリエステへ、汽車でオランダのハーグへ、ここからやっと船で1855年にアメリカへ戻った。のちに遠征の詳細な記録「アメリカ艦隊の中国海域及び日本遠征記」を出版。
photo:荒賀源外さん
福沢諭吉<yukichi fukuzawa>
□東京都港区 慶応義塾大学 中津城
□天保5−明治34(1835-1901)
□明治時代の民間啓蒙思想家

天保5年(1834)、豊前(大分県)中津奥平藩の士族の子として大坂の蔵屋敷で誕生。3歳で父が亡くなり中津へ帰る。21歳で兄に勧められ長崎に遊学して蘭学を学んだ。その後、大坂の緒方洪庵の適塾に入門し、科学の知識を身につけ、2年後には塾長となる。
江戸に出て、英学者である中浜万次郎や森山多吉郎に英語を学び、アメリカに興味を覚えると、万延元年(1860)に軍艦奉行の木村喜毅の従者となり咸臨丸で渡米。その後、渡欧し、体験をもとに著した「西洋事情」は日本の政治に大きな影響を与え、徳川慶喜には大政奉還を決意させたといわれる。渡米後、江戸の中津藩中屋敷で始めた蘭学塾では英語を教え、江戸唯一の英学塾として多くの塾生を集めた。慶応3年(1867)2度目の渡米後、塾を芝の新銭座に移し、年号をとって「慶応義塾」とした。現在の三田に移ったのは明治4年(1871)である。
「学問のす々め」「西洋事情」「文明論之概略」は諭吉三部作といわれる。
photo:SPOOKさん
プッチーニ
<Giacomo Antonio Domenico Michele Secondo Maria Puccini>

□長崎県長崎市南山手町 旧グラバー邸
□1858−1924
□作曲家

イタリア出身。18世紀から続く宗教音楽家の家系に生まれる。
1904年に作曲したオペラ「蝶々夫人 Madama Butterfly」で日本に知られる。
photo:ばつまるさん


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