小田原城 odawara-castle 神奈川県小田原市城内

天守
明治の解体直後の写真をもとに昭和34年白亜3層の天守閣と付櫓(つけやぐら)が復元された。最上階は展望室で標高60mからは相模湾・房総半島まで見渡せる。

天守は歴史資料展示室/夕陽に染まる堀/常盤木門は本丸虎口の櫓門/隅櫓橋と二の丸隅櫓(左列)
南曲輪の堀端にある藤棚「御感(gyokan)の藤」/二の丸東堀と二の丸隅櫓/銅(あかがね)門は二の丸表門(右列)


別名 --- 築城年代 治承4年(1180)
縄張・種別 梯郭式/平城 築城者 土肥次郎遠平
遺構 石垣・堀
復原 復元=天守と付櫓・二の丸隅櫓・常盤木門
国指定 史跡
攻城年月日 ---


【歴   史】
治承4年(1180)源頼朝に属し、平家討伐の功で勢力を伸ばした土肥次郎実平の長男遠平が、小早川氏を名乗り小田原を治めることとなり、居を構え、後方に山城を築いた。
約200後の応永23年(1416)ときの関東管領であった足利持氏と組んで、上杉氏憲の乱に功労のあった大森氏が進出し、6代約90年に亘り勢力を張る。
明応4年(1495)伊勢国出身で伊豆、韮山(にらやま)で起った風雲児伊勢新九郎こと北条早雲が大森氏を攻め滅ぼす。
以後小田原は政治、文化の中心地となり、北条5代95年間に亘り関東一円に君臨した。
小田原城のハイライトはなんとゆっても戦国末期、全国制覇をねらう豊臣秀吉の小田原攻めである。
北条勢は城を拡張し守りを強化して迎えたが、秀吉の大軍の前に手も足も出ない。打って出るかろう城か、議論は尽きない。これが「小田原評定」の語源となった。
徳川時代になると、江戸への関門として重要な地となり、譜代大名を置き大天守を持つ堅固な城に改築した。
大阪城をはるかにしのぐ広大な城であった。

ここは天守だけ観て帰っちゃうひとが多いですが、なんとももったいない!
すぐ側の本丸と二の丸との間の常盤木御門、それに続く多聞櫓の黒瓦と白壁、それらを支える石垣がメチャ美しい!

城地の大半が市街地と化し、東海道線や新幹線が本丸下の掘割を通っている。現存するのは本丸と二の丸で公園。
城内は博物館で甲冑や古い絵図面が展示され、最上階からは小田原市内はもとより、箱根、丹沢の山々が間近に眺めることができる。

photo:荒賀源外さん


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