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源義経にとっての平家討伐の第一戦。
1184年1月26日、法皇から義経・範頼に平氏追討の院宣が下ります。
平家軍は、一旦は備前から太宰府まで入っていましたが、その後福原にまで進出 し、一ノ谷で陣を構えていました。そこで、範頼軍は西国街道を進み、義経軍は丹波路を迂回する形で行動を起こします。義経兵はわずか200〜300騎でした。
2月5日、義経軍は三草山にて平資盛・有盛らを撃破(屋島へ逃れる)したあと、土肥実平軍らと二手に分かれ、30騎程度となります。この中のメンバーは、畠山重忠・熊谷直実・平山季重・弁慶・三浦義連・伊勢義盛。
そして、2月7日早朝、鵯越に おいて人馬一体の、世にいう「逆落とし」奇襲戦が実行され、平家一ノ谷の陣約7千余騎 を粉砕するに至りました。 |
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遙か遠く、目測にして富士山よりも3300メートル以上の高低差があると思われる旗振山、鉢伏山 家から徒歩で行って参りました。 家から望む、山頂
綿密な計画の結果、登頂ルートを設定。 一見、何でもないようなルートであるが、そこは未開の地 何が出てくるか解らない。 |
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家を出発してすでに20分、山林に入る少し手前で見つけた 立て看板。
なに、ここは源平合戦の古戦場とな!? と初めて知る。
源平塚まで行こうと思ったがここで大きく ルートから外れるため、断念した。 ここで体力を消耗しては、この先の登頂に支障が出ると判断。 |
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源平塚の看板から先は急激に道が悪くなり人の進入を拒むかのようで あったが、以外や以外結構な人通りである。
すれ違うたびに 「おはようございます」と声を掛け合う
もうすっかり登山気分ダス 山道を歩くこと20分、噴水パレスに到着、アーチ型屋根の向こうに明石海峡大橋。 |
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鉢伏山から見る須磨海岸、山の麓が一ノ谷になる。
※鵯越はここから20キロ北側に位置。 |
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噴水パレスからみる旗振山 名前の由来は、江戸時代から大正時代初期、電信が普及されるまで、 ここで畳一畳位の旗を振り、大阪堂島の米相場を加古川、岡山に伝達 していた中継点であったことっが由来だそうです。
今は、昭和初期から創業の茶屋がありこの日は朝10時前でありながら
オッサン達はすでに酒盛りでできあがっていました。 |
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