玉縄城・長尾砦 tamanawa-castle・nagao-toride 神奈川県鎌倉市城廻
横浜市栄区



別名 甘縄城 築城年代 永正10年(1513)
縄張・種別 ---/平山城(丘城) 築城者 北条早雲
遺構 本丸の諏訪壇に物見台・空堀・水堀
復原 ---
国指定 ---
攻城年月日 2003/12/1


【歴   史】
-玉縄城-

後北条氏の祖、北条早雲が三浦半島を勢力圏に持つ三浦氏への押えとして築城。
初代城主は北条氏時(氏綱の弟)、以後は後北条氏の居城となる。
永禄4年(1561)上杉謙信より小田原城攻めの帰路に猛攻撃をかけられるもこれを撃退、堅固な城であったという。
天正18年、豊臣秀吉の小田原征伐では本多忠勝軍に攻められ開城、降伏した。ときの城主氏勝は、徳川家康関東入封後に下総(千葉県北部)かつて本佐倉城の支城であった岩富城1万石を与えられでいる。
徳川の城となってから、本多正信・水野忠守とう重臣が入城。
元和元年(1615)の一国一城令で廃城。
-長尾砦-
戦国時代に小田原北条氏が築いた玉縄城の出城が長尾砦跡といわれる。しかし、長尾の名は古く鎌倉以前にまでさかのぼる。
この地に鎌倉武士長尾氏の館があったといい、昭和55年、農地整備に伴い横浜市埋蔵文化財調査委員会の発掘調査が行われ縄文時代から中世にかけての遺物が発見されているほか、現在まで、この付近から五輪塔、板碑、陶磁器とうが出土している。
長尾氏は平安時代の武将で、源義家に従って後三年の役で活躍した鎌倉武士の祖ともいえる鎌倉権五郎景政の子孫がこの地に住んで長尾次郎と名のったと伝え、これが鎌倉長尾氏の始祖だという。
次郎の子孫という長尾定景は、治承4年(1180)8月石橋山合戦で源頼朝を護るため俣野五郎景久とくみ討ちをしていた佐那田与一義忠を討ち取った人物だと源平盛衰記にある。
また、建保7年(1219)1月、3代将軍源実朝を殺害した別当公暁(べっとうくぎょう)を討った人でもある。
その子景茂は宝治元年(1247)6月三浦泰村の乱(宝治の乱)で泰村方につき、泰村が敗れたので北条時頼軍に襲われ、景茂父子は源頼朝が建てたという法華堂で自刃した。
ここに鎌倉長尾氏は滅亡したのだが、室町時代にその一族、長尾景仲が活躍したし、戦国時代に長尾顕方とうの一族の屋敷があったというから、その後も一族の子孫たちがこの旧長尾郷一帯に定着していたと考えられる。

戦国大名で有名な上杉謙信も、越後国守護代の長尾氏で、長尾景虎といい、後に関東管領上杉氏の末裔を迎えてその養子となり上杉氏を名のったのだから、その先は鎌倉長尾氏である。
その時代、小田原北条氏が関東一円に勢力を拡大する中で、長尾顕方とうの一族もその勢力下に組み込まれ、玉縄城主北条綱成の領地とされ、長尾氏の屋敷のあった長尾台に長尾砦が築かれて、柏尾川流域一帯を掌握する根拠地となり、三浦・武蔵方面への支えとしたのである。
[栄区役所]

【攻城記】
長尾砦は、このたて看板しかありません。(笑い)
玉縄城は関東の七名城に数え上げられた巨城ですが、現在は写真の女子高に占拠され接近は全くかないませんなんだ。
道路案内には玉縄城周辺などがあるのですが、自転車による大山登りを敢行しても、やっぱり城の周辺に接近することも できません。
というわけで、写真はこの2枚だけだよ。(大涙)

photo:荒賀源外さん


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