別名 |
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渭山城・渭津城 |
築城年代 |
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元中2年(1385) |
縄張・種別 |
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---/平城 |
築城者 |
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細川頼之 |
遺構 |
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天守台・表御殿の枯山水庭園・石塁・掘 |
復原 |
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復元=鷲の門 |
国指定 |
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攻城年月日 |
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2001/8/6 |
【歴 史】
元中2年(1385)に阿波(徳島県)の守護細川頼之は絶海中津(ぜっかいちゅうしん)という室町初期の臨済宗の僧をともないこの地を訪れ、風光明媚な土地に「渭津城」を創築したと伝えられる。絶海中津が明(みん)の山水画に描かれた中国の渭(い)水の風景だとして城の名とした。
要害の地でもあったので家臣を置き守備にあたらせ、細川氏による阿波統一の拠点とした。
天文21年(1552)細川持隆が重臣の三好義賢に謀殺されてしまう。数々の戦功を立て実力を蓄えてきた義賢を持隆がこころよく思わず対立していったのが原因だ。
永禄年間(1558〜70)義賢は秋月城の城主森氏に城を預ける。
天正10年(1582)土佐から侵入した長宗我部元親が攻略し、吉田康俊を城代におく。
同13年、豊臣秀吉の四国征伐で城は無血開城、秀吉に接収された。
戦功により阿波一国は蜂須賀正勝・家政父子に与えられ、最初一宮城に本拠を置いたが城下町を形成するのには不向きだったため、平野の中央に位置する徳島城に本拠を移した。
「渭津」の地名も「徳島」に改め、蜂須賀氏が15代285年在城。
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