別名 |
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築城年代 |
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永禄末年 |
縄張・種別 |
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---/平城(沼城) |
築城者 |
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石川久式 |
遺構 |
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本丸土壇・二の丸微高地・三の丸跡地 |
復原 |
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国指定 |
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攻城年月日 |
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2001/12/12 |
【歴 史】
築城年代は定かではないが、松山城(高梁市)を本城とする三村氏の家臣石川氏により、備前国に勢力を持っていた宇喜多直家に備えたのが築城の目的と伝えられる。
石川氏は清水宗治のような国人を率いる武将である。跡継ぎがなく須々木氏から養子を迎えるが、当主・養子とも早世してしまい、養子を出した側の須々木氏が主導権を握り、こんどは他所から再び養子をもらおうと考えた。
永禄8年(1565)宗治はよそ者を主君と仰ぐくらいなら、自らその地位につこうと画策し、同じ考えで高松城に兵を進めてきた長谷川氏を城中にて殺害してしまった。
宗治が高松城主になったことを宣言すると、出し抜かれたかたちとなった須々木氏からブーイングの嵐、ここに旧石川勢力は分裂。宗治は味方になってくれたひとびと(派閥とでもいうか)と一緒に毛利氏へくら替えした。
織田信長に中国攻めを命じられた羽柴秀吉は備前国に至り、毛利氏も必死で勢力下の境である七城を固め待ち構えていた。
ちなみに「備中七城」とは、北から宮路山城(乃美元信)・冠山城(林重真)・備中高松城(清水宗治)・鴨庄城(生石中務)・日幡城(日幡景親)・庭瀬城(井上有景)・松島城(梨羽中務丞)。
備中高松城の地形を見てみると、低めの丘陵の上に建ち、西に足守川・三方は沼地、城郭と外は橋でつながっていて、これを落とせば”沼にはまってさあタイヘン〜”、秀吉軍は進めるか?しかも立てこもり人数5,6000、兵糧もたっぷりあるらしい。さあ、どう攻める秀吉クン!
秀吉は自軍にも多くの犠牲者を出すキケンな力攻めはせずに水攻めを敢行、ラッキーなことに梅雨時期でもある。城の周囲に高い堤を築き砦を造り、足守川や水路を塞きとめ城へ一気に水を流しこんだ。
ついに城は孤立。有利に立ったが毛利氏との交渉ははかどらない。
そんな中、本能寺で信長が明智光秀に討たれたことが知らされ、宗治ひとりが切腹することで高松城の包囲をとくことに話がついた。哀れ、宗治は小舟で城外へ漕ぎ出し一曲舞謡ってからグサッ!(痛そう
その後、この地は宇喜多氏の所領となり、重臣の花房正成が城主になった。
関ヶ原合戦後は、徳川家康の旗本花房職之が居城したが、便利のよい松山往来沿いに知行所を構えたので廃城。
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