岡崎城 okazaki-castle 愛知県岡崎市康生町



別名 竜ヶ城 築城年代 康正元年(1455)
縄張・種別 ---/平城 築城者 西郷稠頼
遺構 石垣・堀・土塁
復原 天守・付櫓・井戸櫓
国指定 ---
攻城年月日 ---


【歴   史】
室町中期、康正元年(1455)に西郷稠頼(つぐより)が矢作(やはぎ)川畔に竜頭城を築いた。
大永4年(1524)西郷時貞のとき、西三河の北部山間地から頭角をあらわしてきた松平党が平野部に進出し、西郷を滅ぼした家康の祖父である松平清康が入城した。徳川家康が”竜年”の生まれなので竜ヶ城とも呼ばれる。
天文11年(1542)12月26日本丸北の二の丸で家康誕生。家康の幼年期から青年期にかけて織田、今川の人質となった時期は今川の城代が置かれた。
永禄3年(1560)桶狭間の合戦で今川義元が織田信長に敗れると岡崎へ帰城した。勢力拡大に伴う大改築工事を行う。
元亀元年(1570)東海地方ダッシュに本格的に乗り出すため、長男の信康に岡崎城を譲り、浜松城に移る。
天正7年(1579)政治向きのトラブルで信康を自害させると、城代として石川数正、本多重次を入城させた。
天正18年(1590)家康が関八州の守りとして豊臣秀吉の命で江戸へ移封されると、秀吉の武将田中吉政5万7千石→城番城代→水野→松平→本多と交代した。
矢作川と大平川の合流点に近い霧降山を本丸とした。
天守閣は元和3年(1617)本丸東北隅に3層3階地下1階。東側に井戸”東照公産湯の井戸”、南側につけ櫓を伴った複合天守閣である。
明治のはじめに城内の建物はすべて取り壊された。

昭和34年、破却前の写真その他をたよりに3層の天守閣が復元された。
浮世絵図鑑があったら見てね。広重の東海道五十三次の「岡崎」に載ってるよ!(~_~;)

photo:酎隊長


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