|
天守
徳川家康公生誕の城。その作りは、鉄筋コンクリー5階建て、中は資料館になってます。明治の廃藩置県の折に一度、取り壊されてしまったのですが、地元有志の努力
により、再建されました。
現在では城を中心に岡崎公園として整備されてます。この公園内にあるグランドを今発掘調査してまして最近、昔の曲輪跡が発見されま した。
下級武士の住居群だった所らしく、当時の生活を知る大事な資料となるそうです。
能楽堂の道
私の好きな風景!能楽堂の道。
左の建物はここ数年前に出来た建物ですが中々、雰囲気が気に入ってます。
この道の先に大手門があるのですが、これも最近出来たもので私的には???なも んですから写真には撮って有りません。で、手前に行くとあの曰く因縁のある井戸へと続きます。
井戸
これが家康公産湯の井戸。
何が曰く因縁?と聞かれても別に皿を数える美人が出ると
か、 貞子が這い出して来るとかじゃないんですが・・・。でも此れ見て懺悔しなきゃいけない人が
必ずいるんじゃないかな〜〜っと(笑)
昭和に調査したところ、井戸の底から伊賀川に向けてトンネルが掘られた後があった
とかで抜け穴か!?と騒がれましたが結局はわからずじまい。
(変わりに底から大量の空き缶が見つかったとか見つからないとか・・・。)
あ、それと昔ココにも江ノ島と同じような「カップルで訪れると災難が降りかかる」
伝説が有りました。 この近くの曲輪に住んでいた築山殿
(家康公の正室、のちに信長の命に寄り斬首。ヒステリー気味で有名)の怨霊か?
(いえ、別にロケット花火の的にされただけなんですけどね・・・。)
城郭模型
資料館内のお城の模型。在りし日の岡崎城なんですが、五万石の城郭にしては立派過 ぎる? 流石は権現様生誕のお城だ〜。 |
|
|
|
でも現在残る岡崎城の城割りや町割りは家康関東移封 の後、この地の領主になった秀吉子飼いの大名、田中吉政の手で行なわれました。
岡崎城は三本の川に守られた天然の要害に作られていますが、この吉政、相当東(家 康)が気になったらしく 東からの攻めに対して徹底的に作り変えてます。 お城のすぐ傍を東海道が通ってますが、これをグネグネと曲げて(岡崎二十七曲がり) それと挟撃出来る 形にある甲山に神社、仏閣を沢山この時代に移築してます。おかげで年貢が上り、領 民からは相当嫌われてたみたい。 でもこの人、確か関ヶ原では家康側に着いたんじゃなかったけ? |
|
眺望
天守閣から大樹寺を望む。っていいながら何処が大樹寺だか判らなくなってしまいました(笑) 撮った時は覚えていたのにな〜。ここかな?、こっちかな?
さて問題です、どこで しょう? CAJUN氏のHPでも紹介されていたのですが、この岡崎城から大樹寺の山門までそれを 見えなくする程の 建物は市の条例により建てる事は出来ません。 |
天守閣からは乙川(男川)も望むとができます。春は桜、夏は花火で賑わいます。乙川は城を守る三本の川の一つですね。
「五万石でもよ〜、岡崎様はよ〜、お城下まで船が着く〜」
と歌われた場所でもあり ます。
少し川下で残りの二本、伊賀川、矢作川と合流します。
矢作川は当時、物流の面でも非常に重要な川で川下の吉良(忠臣蔵で有名ね)から塩や
海産物を、 川上(挙母現在の豊田)から大豆等を、またまたそこから馬で信州まで。つまり塩の道
の一つでした。 |
|
岡崎は八丁味噌で有名ですがこれでナットク♪ 因みに八丁の由来は岡崎城から八丁離れた場所で作られているからだそうです。又、東海道と矢作川の二つの物流路線の合流地点と考えると其の頃地勢的にも重要 だったんでスね。
礎石
資料館を入って直ぐに此れがあります。さて何でしょう?
実は岡崎城の心柱の礎石で す。
現在、こういう形で確認できているのはこれを含めて3つしか無いそうです。 |