長篠城 nagashino-castle 愛知県南設楽郡鳳来町長篠
nagashino-castle photo
曲輪跡T/堀跡(左列) 曲輪跡U/鳥居強右衛門お手柄の地(右列)


別名 末広城・扇城 築城年代 永正5年(1508)
縄張・種別 ---/平城 築城者 菅沼元成
遺構 主郭と段丘先端部の土塁・空掘
復原 ---
国指定 ---
攻城年月日 2003/9/21


【歴   史】
永正5年(1508)山家三方衆のひとり長篠菅沼元成が築城。
山家三方衆とは、設楽郡一帯の山間部「奥三河」(愛知県東部)に位置する場所で、小士豪が居住していた。菅沼(長篠城)・菅沼(田峰城)・奥平(作手城)の三氏、有力豪族ということで代表に数えられる。
この地は、信濃国(長野県)と三河を結ぶ交通・戦略の重要地点であり、今川・武田・織田・徳川領土の接点にあたり、時勢をよみ敵味方に分かれたりしながら存続を図ってきた。
元亀2年(1571)徳川方に属していた菅沼氏(長篠城)が武田方へと主家変更。
天正元年(1573)徳川家康は武田信玄の死後、長篠城を攻めて城を奪い菅沼氏は逃亡、以後松平家忠らが城将となり、長篠合戦のときには奥平信昌が城を守っていた。信昌(作手城主)は一時武田氏に従っていたが、信玄の死後、父の貞能とともに徳川方へ寝返っていたのだ。徳川軍が長篠城を攻撃したとき、奥平父子は武田の援軍を見事に阻止したという因縁もあり、武田勝頼にしてみれば裏切り者として生かしてはおけないほど憎んでいた。
天正3年(1576)5月、勝頼は大軍を率いて長篠城を包囲、守将の奥平父子は事態がここまできてしまった以上、降伏することもできず必死の防戦を試みた。11日より武田軍は猛攻撃を開始し、間もなく三の丸・弾上郭を落とし、さらには本丸土塁を掘り崩す。
そもそも、ろう城の一番の希望は援軍が来て挟み撃ちで敵をやっつけるということだ。城を抜け出し徳川・織田の援軍を誰かが呼びに行かなければならない!このだいじな役を引き受けたのが、鳥居強右衛門勝商であった。
えらいゾ強右衛門!!!←ここで声援を送ってどーする(^_^;)
彼は14日夜、武田軍の厳重な囲みを突破して脱出成功、15日主尾よく家康・信長に拝謁でき長篠城の急を伝え出馬要請をし両武将とも承諾、その吉報を持って急ぎ城へと引き返して行った。
さあ、強右衛門の運命やいかに!
竹束を担いで武田軍に紛れ込もうとしたが怪しまれて捕らえられてしまった。勝頼の前に引き出され事情聴取の際、ありのままを白状。
そこで勝頼は、
「援軍は来ない、と城に向かって大声で叫べ」
と強要するが、翌日”世紀の伝令”強右衛門は、
「城中の方々に申し上げる。強右衛門でござる。信長公と家康公は間もなく大軍を率いて長篠に御着陣なされるはず、安心して城を守られよ!」
あわわ、打ち合わせと違うぢゃん!
慌てた武田兵が強右衛門を引き倒し、彼は見せしめのために城の対岸「有海原」で磔に処せられた。
強右衛門が死を賭して報告した通り、18日に援軍...それも大軍が設楽ヶ原に到着、ここに長篠合戦が開始されたのだ。

photo:夜波戯さん


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