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古今の英雄をご紹介


源満仲<mitsunaka minamoto>
□兵庫県川西市 JR川西池田駅前
□延喜12−長徳3(912-97)
□平安中期の武将

源経基の子で摂津源氏の祖。
安和2(969)藤原摂家に接近し、摂関政治の発端となった安和の変を仕組んだといわれる。この変は橘繁延・藤原千晴(平将門追討に功のあった藤原秀郷の子)らを叛乱の意図ありと密告、源高明を失脚させたというもの。摂家と結んだ満仲は武人としての地位を確立した。(摂家に利用されたという説もあり)
寛和2(986)自らの孫を即位させ、外戚の地位を得ようとした藤原兼家・道兼父子の陰謀に気づいた花山天皇は、密かに宮中を抜け出し京都山科の元慶寺に赴き皇位を捨て出家してしまった「花山天皇出家事件」では警護役をつとめ、正暦5(998)には一族の協力を得大規模な盗賊追捕を行う。
摂津守となり摂津多田に本拠を置き多くの郎等を養ったので多田満仲(ただのまんぢゅう)と称せられた。
photo:ばつまるさん
源義家<yoshiie minamoto>
□東京都府中市府中本町欅並木道
□長暦3−嘉承1(1039-1106)
□平安後期の武将

文武に秀で、騎射を得意とした。石清水八幡宮で元服したので「八幡太郎義家」と称され、天下の武勇者として有名。
前九年の役がはじまると、天喜4(1056)陸奥守兼鎮守府将軍に任命された父とともに陸奥に赴き、安倍頼時・貞任父子と黄海(きうみ)の柵で戦い大敗を喫するが、義家の奮戦で危機を脱した。康平5('62)清原武則らの援軍を得て厨川(くりやがわ)の柵を囲み、貞任討ち取ることに成功。さらに承暦3('79)美濃において源重宗と源国房が戦った際には宣旨(せんじ)を受けて重宗を討ち取った。永保3('83)陸奥守兼鎮守府将軍に就任、奥羽に源氏の支配権を確立するため、出羽の清原氏一族に起こった内紛に干渉し、清原清衡と結んで清原家衡とその叔父武衡らを攻めた。この戦を後三年の役という。寛治1('87)苦戦の末に勝利したものの朝廷に私闘とみなされ、恩賞は義家が私財をもってこれに当て、東国武士との結束を生んだ。'91郎等の所領争いに関与、弟義綱と京で戦おうとするが朝廷に制止される。その後様々な役職に就いたが晩年は白河院政の源氏抑圧政策により活躍の場を失っていく。
武勇ばかりでなく和歌にも精通し、陸奥守兼鎮守府将軍になっとき詠んだ
”吹く風を 勿来(なこそ)の関と思えども 道も狭に散る山桜かな”
は「千載集(せんざいしゅう)」に残している。
photo:あられ
源頼朝<yoritomo minamoto>
□神奈川県鎌倉市佐助 源氏山公園
□久安3−正治1(1147-99)
□鎌倉幕府初代将軍 義朝の3男 母は藤原季範の娘

平治1(1159)13歳で平治の乱に初陣し捕らえられ伊豆の蛭ヶ小島に流される。以後20年間流人生活を送ったが、治承4(1180)以仁王(もろひとおう)より平家打倒の命が発せられ、これを受けて8月伊豆で挙兵。石橋山合戦では敗北したがまもなく東国の源氏武士団が集結、10月には鎌倉を本拠とする。頼朝挙兵を受けて京の平氏は平維盛を総大将とする討伐軍を送るが富士川で惨敗。翌年奥州より源義経が駆けつけてきた。天才軍略家の登場で5年後に平家は壇ノ浦に滅ぶ。
後白河法皇は源氏の勢力が拡大することをよろこばず、頼朝を牽制するため義経に顕官を与え昇殿を許し公家たちも親しく交わらせた。これに頼朝が激怒して凱旋してきた義経を鎌倉の手前で足止めさせ京へ追い返した。
法王は義経に頼朝追討の宣下をし、頼朝が京へ軍を出し威嚇するとこんどは頼朝に義経追討を命じた。すでに頼朝に逆らう力のなくなった法王に守護・地頭制度を認めさせると次ぎに朝廷の人事を一掃させた。
建久3(1192)征夷大将軍となり、以後700年にわたる武家政権がはじまった。
photo:荒賀源外さん
源義経<yoshitsune minamoto>
□山口県下関市みもすそ川町 みもすそ川公園
□平治1−文治5(1159-89)
□平安後期の武将 義朝の9男 母は常盤御前

平治の乱で父義朝を失い、はは常盤御前とともに捕らわれたが、死を免ぜられて鞍馬寺に送られる。のち京都を逃れ奥州藤原秀衡の庇護を受けた。治承4(1180)兄源頼朝の挙兵を聞いて、馳せ参じた。寿永2('83)末、兄源範頼とともに、源義仲追討の代官として上洛。元暦1('84)義仲を破って入洛。さらに平氏追討を命じられて、摂津国一の谷鵯越の奇襲により、平氏に壊滅的な打撃を与えた。凱旋してのち京都にとどまり、守護の任にあたる。後白河法皇の信任をえ、頼朝の許可なく検非違使・左衛門少将に任ぜられたことから、頼朝の怒りをまねき、平氏追討の任をとかれた。文治1('85)再び平氏追討使に起用されるや、阿波に渡り、陸路屋島を奇襲して平氏を破る。つづき長門国壇ノ浦の海戦で平氏を壊滅させた。捕虜にした平宗盛を従えて関東に下ったが、頼朝の不興をかって、鎌倉入りを拒まれ腰越状を呈した。
やむなく京都に戻るや頼朝が派遣した刺客土佐坊昌俊の襲撃(堀河夜討という)を受け、ついに頼朝と対抗するため、叔父源行家と結び、後白河に請うて頼朝追討の宣旨をえた。頼朝が直ちに兵を送ったので、畿内武士は動揺し、義経は彼らの支持を失ったため、九州地頭職をえて西国に落ちんとして摂津より船出したが難破した。畿内各地を転々としたが追手の厳しさのため、再び奥州に秀衡を頼った。'89秀衡が亡くなると、頼朝の圧力に屈した子の泰衡により、居所衣川の館を襲撃され自殺した。
photoばつまるさん
毛利元就<motonari mouri>
□?
□明応6−元亀2(1497-1571)
□戦国時代の武将

毛利弘元の二男。安芸国多治比猿掛城にいたが、兄興元とその子幸松丸の死によって、大永3(1523)家督を継ぎ、郡山城主となる。尼子氏のちに大内氏に属す。二男元春を吉川氏、三男隆景を小早川氏の養子として安芸一国を支配、’46年ごろ家督を長男隆元に譲る。
'51大内義隆の家臣陶晴賢が謀叛を起こし義隆を殺し、大友義鎮の弟を迎えて大内義長とするや、弘治1('55)一族を率いて厳島に晴賢を破り、ついで'57義長も滅ぼし、長門・周防両国を平定。以後、備後・備中・石見などに進出。13代将軍足利義輝の相伴衆となる。'62以降出雲の尼子氏討滅に意をそそぎ、'63白鹿城を陥れ、'66その本拠富田月山城を攻め落とし、尼子義久を降ろす。'68豊後の大友義鎮を攻め、元亀1('70)尼子勝久・山中幸盛(鹿之助)を出雲に破り、安芸・周防・長門・備中・備後・因幡・伯耆・出雲・隠岐・石見の10ヶ国を支配する有力大名となる居城の郡山城で病没。
photo:ばつまるさん
村上元吉<motoyoshi murakami>
□愛媛県越智郡宮窪町 村上水軍博物館
□?−1600
□村上水軍 水軍城 能島城 参照

村上武吉の長男。

photo:ばつまるさん
村上景親<kagechika murakami>
□愛媛県越智郡宮窪町 村上水軍博物館
□?−?
□村上水軍 水軍城 能島城 参照

村上武吉の二男。
photo:ばつまるさん
前田利家<toshiie maeda>
□石川県金沢市丸ノ内 金沢城(上)尾山町・尾山神社(下)
□天文7−慶長4(1538-'99)
□安土・桃山時代の武将

尾張国海東郡荒子城主・前田利昌の4男。
幼少より織田信長に仕える。若いころは当時流行の”かぶき者”で、合戦の際には先陣をきって派手な長槍を振るい、「槍の又左」と異名をとった。同朋の十阿弥を殺害し信長の怒りを受ける。桶狭間合戦に参戦するが怒りは解けず、永禄4(1561)美濃で長井氏と戦った際に功をあげ許されると、赤母衣衆(あかほろしゅう)の一員に加えられた。
'69前田家を相続し旧領2千貫を領す。元亀1('70)越前国金ヶ崎城に朝倉景恒を攻め、天正1('73)佐々成政とともに越前国刀弥山峠に朝倉義景の兵を破る。'75長篠合戦に参戦、越前国平定後、同国府中に3万3300石を賜り、さらに能登一国を与えられ七尾城に移った。'81上杉景勝と、'82能登国石動(いするぎ)山の衆徒と戦う。'83賤ヶ岳の合戦には柴田勝家についたが、のち羽柴秀吉に通じる。同年秀吉より加賀国石川・河北両郡を与えられ、のちの金沢城である石川郡尾山城に移る。
小田原の役・文禄の役を経て大納言となり、豊臣政権では五大老に列した。秀吉が没すると秀頼を補佐し、伏見城から大坂城へ移った。
photo:荒賀源外さん
最上義光<yoshimitsu mogami>
□山形県山形市霞城町 山形城
□天文15−慶長19(1546-1614)
□安土桃山・江戸前期の大名

13代将軍足利義輝の一字を与えられて義光と名乗る。(このころ落ちぶれた将軍は名前の一字を地方の大名に売っていたのだ)出羽山形城を居城とし、天正5(1577)天童城主最上頼澄を討ち、上杉景勝・伊達政宗らと抗争。'90小田原に赴き豊臣秀吉に謁し本領を安堵される。
慶長5(1600)関ヶ原の戦に徳川家康が西上すると、その子結城秀康を援け直江兼続の率いる上杉景勝の兵と戦う。戦後、功により上杉氏の旧領出羽国庄内を加えて57万石に封ぜられた。
photo:シリウスさん
まつ−芳春院<housyuin>
□石川県金沢市尾山町 尾山神社
□天文16−元和3(1547-1617)
□前田利家の正室

尾張国海東郡の出身。永禄元年(1558)若干12歳で従兄妹の前田利家の室となり、利家を支え加賀百万石の礎となる。
慶長4(1599)利家が没すると剃髪し「芳春院」と号する。
家督を継いだ2代藩主・利長に対し、徳川家康は「謀反あり、加賀を討つべし」といいはなちたとき、その疑いを晴らそうと自ら江戸へ下り徳川家の人質となった。
その後15年間江戸で過ごし、利長の死後金沢に戻ることができた。
photo:荒賀源外さん
母里太兵衛<tahei mori>
□福岡県福岡市中央区西公園 光雲神社(上)
/博多区博多駅前(下)
□弘治2−元和1(1556-1615)
□但馬守母里友信 黒田孝高・長政の家臣

播磨国妻鹿 (現:姫路市飾磨区妻鹿)の地侍・曽我一信の子。一信は小寺家の付家老として職高(後の黒田官兵衛の父)に仕えていた。永禄12(1569)太兵衛は官兵衛に仕えることとなり、母方の姓「母里」を名乗る。
天正1('73)印南野合戦で初陣。常に黒田軍の先鋒をつとめ、豊臣秀吉の九州征伐では豊前宇留津城攻めに一番乗りを果たし、朝鮮の役でも活躍。数々の戦功を立てた。黒田家が筑前国へ入封されると1万8千石で鷹取城(戦国期には大友方の毛利鎮実の居城)を預かった。
銅像の持つ槍は長政の使いで福島正則邸へ行ったときに酒の飲み比べをし、太兵衛が勝ったので、正則から「飲み取った」名槍”日本号”だ。このエピーソードは「黒田節」に歌われている。
photo:ばつまるさん(上)
photo:SPOOKさん(下)
森忠政<tadamasa mori>
□岡山県津山市山下 津山城
□元亀1−寛永11(1570-1634)
□安土桃山・江戸前期の大名

織田信長の小姓で有名な森蘭丸の弟。
天正12(1584)4月、兄長一が長久手の戦で戦死したのち、その嗣子となり、豊臣秀吉に仕え、金山7万石を領す。'85羽柴の称号を許される。
秀吉が没すると徳川家康に近づき、慶長5(1600)信濃国更科・水内・埴科・高井4郡のうちに13万7500石を与えられ、川中島に住まう。同年関ヶ原の戦には徳川秀忠に従って上田城を攻める。'03美作国津山に転封、18万6500石を領した。
'14大坂冬の陣では天満口、'15夏の陣には仙波口で奮戦。
photo:ばつまるさん
間宮林蔵<rinzou mamiya>
□北海道稚内市宗谷岬 北緯45度31分/日本最北端
□安永4−弘化1(1775-1844)
□江戸時代後期の探検家

常陸国筑波郡谷井田村出身。幼いときから数学的才能に秀でており、その才を認められ、寛政2(1790)ごろ江戸に出る。'99年幕府に仕え、はじめて蝦夷地に渡った。1800年蝦夷地御用雇いとなる。この年伊能忠敬に会い師弟となって測量術を学ぶ。享和1('01)西蝦夷地の地形を明らかにする。文化5('08)松平忠明の命で樺太探検に赴き、松田伝十郎と協力。林蔵は東海岸を北上したが、目的を充分に達することが出来なかった。翌年、単身で海峡(間宮海峡)を渡り、満州(中国の東北部)へ朝貢にゆく土着人の船に乗って黒竜江を遡り、土着人撫育と交易のため出張してくる清国官吏と応接。また樺太が島であることを明らかにした。
文政5('22)勘定奉行所属の御普請役、'24御備場掛手附、天保4('33)足高20俵増給。これより先シーボルト事件が起こると密告者といわれ人望を失う。のちに隠密として長崎に下る。天保年間(1830-43)にも竹島事件の摘発う。江戸深川蛤町で没した。
photo:ばつまるさん
毛利敬親<takachika-mouri>
□山口県山口市 亀田公園
□文政2−明治4(1819-71)
□幕末・維新期の大名 10代長州藩主毛利斉元の長男・11代斉広の養嗣子

天保8(1837)襲封して12代藩主となる。ときの藩政は3度におよぶ大一揆や8万5千両もの借財で行き詰っており、'38村田清風を登用して藩政改革に乗り出した。下士層から人材を登用、村役人・地主・在郷商人ら地域の指導者と結んで改革派を形成し、上士層と手を組む特権商人を藩政から排除した。
有備館を設立し、明倫館を充実させ文武を奨励し、幕末の動乱期に備えた。文久1('61)長井雅楽をして航海遠略索を幕府に建議させたが、藩政の主導権を尊皇攘夷派が握ったため藩論は攘夷に転換した。'63攘夷断行の勅命を出させることに成功し、5月15日を期して下関海峡で外国船を砲撃、しかし8月18日の政変で敬親の入京は禁止され、元治1('64)禁門の変で官位と称号を奪われた。幕府の長州征討軍には3家老を処分して降服。しかし藩内の攘夷派が再び権力を握るとそれに従い、長州再征の幕府軍を破る。慶応3('67)討幕の密勅を受けて官位を回復。明治2('69)薩長土3藩主と版籍奉還を建白。山口藩知事となったが同年致仕した。
photo:ばつまるさん
松平春嶽<syungaku matsudaira>
□福井県福井市大手3 福井神社
□文政11−明治23(1828-90)
□幕末期の大名 田安斉匡の6男 福井藩主松平斉善の養嗣子 松平慶永

嘉永6(1853)6月ペリー来航のおり、ことの重大性を察し重臣とはかって国防の必要と節倹を説く意見書を幕府に提出。安政5日米通商条約問題が起こると家臣の橋本左内を京に出向かせ開国の必要を説いた。また一橋慶喜を将軍継嗣として、人心を幕府に留め置こうと運動する。'58彦根藩主井伊直弼が大老となるや対立し、同年7月5日慶喜らとともに謹慎を命じられた。文久2('62)大原重徳(攘夷派の公卿)が勅旨を奉じ東下し、それに基づき幕政改革が行なわれ、慶喜が将軍後見職となると同時に政事総裁職に補せられ、公武合体政策の実現にあたった。
'63将軍徳川家茂が上洛して上位の即行をせまったとき、将軍辞職を主張したが受け入れられず。禁門の政変により朝廷に公武合体派が勢力を回復すると慶永は上洛、朝議に参与し、元治1('64)京都守護職となる。慶応3('67)島津久光・山内豊信・伊達宗城とともに四侯会議を開き、長州処分と兵庫開港を議した。大政奉還・王政復古にあたっては自重論で、倒幕論の薩長両藩には賛成しなかった。明治政府成立とともに議定、ついで内国事務総督、民部卿、大蔵卿を歴任。
photo:ばつまるさん
松方正義<masayoshi matsukata>
□鹿児島県鹿児島市下荒田 武之橋
□天保6−大正13(1835-1924)
□明治時代の政治家

島津久光の小姓となり、その間、御側役大久保一蔵(利通)の指導を得る。文久2年(1868)久光に従い京坂の間を往来、公武合体運動・討幕運動に関係。元治1年('64)禁門の変や長州攻略に参加、その後、藩軍艦掛、長崎裁判所参謀として長崎に駐在。明治1年('68)大久保の推挙により日田県知事となる。'70民部大丞、'71大蔵権大丞より租税権頭、租税頭、'75大蔵3等出仕を兼任。地祖改革に従事し大蔵大輔、翌年勧業局長兼務。'77フランス万国博覧会に際して事務局副総裁兼事務官長として渡欧。このとき財政に関し多くの知識を得た。
'78大久保利通が暗殺されると、伊藤博文の下に内務大輔となり、'81「明治14年の政変」後、大蔵卿となり西南戦争以来の不換紙幣の整理に着手。翌'82日本銀行条例、'84兌換銀行条例を制定。'85官制改革により蔵相となり、以後黒田・山県内閣の蔵相を務め、'91首相兼蔵相となる。'92民党と予算案で対立し解散、第3議会で選挙干渉上奏案にて辞職。'95伊藤内閣の蔵相となり日清戦後の経営に当たる。'96首相兼蔵相となり、'97金本位制を実施した。'98−1900山県内閣の蔵相。大正11年('22)公爵。その後も興津に住まいし、元老として政局に関与した。
photo:ばつまるさん
三浦環<tamaki miura>
□長崎県長崎市南山手町 旧グラバー邸
□明治17−昭和21(1884-1946)
□明治・大正・昭和のソプラノ歌手

明治36(1903)東京音楽学校(現:東京芸大)在学中に日本人によるオペラの初公演「オルフェオとエウリディーチェ」に主演。'04卒業後母校の助教授となる。ドイツ留学。帰国後'11開場した帝国劇場のこけらおとしでデビュー、同劇場歌劇部の専任講師となった。大正3('14)渡欧。第1次世界大戦中のロンドンで「蝶々夫人」を演じて好評を得た。'20アメリカでも数々の主役を務め、日本人として最初の国際派プリマドンナといわれた。
photo:ばつまるさん


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