別名 |
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鶴山(かくざん)城 |
築城年代 |
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嘉吉元年(1441) |
縄張・種別 |
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階郭式/平山城 |
築城者 |
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山名忠政 |
遺構 |
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天守台・石垣 |
復原 |
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国指定 |
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史跡 |
攻城年月日 |
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2003/12/9 |
【構 え】
別名の示す通り、津山盆地にある鶴山全体に本丸・二の丸・三の丸・曲輪を配置し、高石垣で囲んである。
かつては5重5階の層塔式天守がそびえ美作国きっての名城であったという。本丸だけでも建物31・門15という規模で、縄張りは豊前小倉城を参考にした。
【歴 史】
嘉吉元年(1441)美作守護・山名教清が一族の忠政に築城させた。その後、毛利氏ついで宇喜多氏の城となる。
慶長8年(1603)美作一国を領した織田信長の功臣・森可成の末子・忠政が信濃国川中島から18万6000石で移封され大城郭を作り上げた。
天正10年(1582)本能寺の変で戦死した蘭丸は二男・坊丸は三男・力丸は四男で、長兄の長可は同13年に小牧長久手の合戦で亡くなり末弟の忠政が家を継いだのだ。いい伝えによると忠政は小倉城を真似ようと城郭図を写し取らせる目的で密偵を潜り込ませた。ところがこの密偵は小倉城主細川忠興に捕らえられてしまうが、それほどまで...と忠興は忠政のために図面を貸し与え完成時にはお祝いまで贈ったという。
また、徳川幕府は当時5階の天守を禁止していたのに、屋根が4つと簡単な造りのものが1つなので報告は5階としてしまった。当然、幕府から呼び出しがあり、4階だ!といい張った忠政は国許へ使いを走らせ4重目の庇を切り落とさせたとの伝説もある。
元禄10年(1697)4代森長成の養子・衆利が参勤交代の途中で乱心し領国を没収される。
広島城主・浅野綱長が城番をつとめた後、翌11年には徳川家康の二男・松平(結城)秀康の曾孫・宣冨が入城。
以来、170年間在城。
【攻城記】
森欄丸の弟、森忠政(誰かに似てるよーな)築城の津山城美作・津山18万石の居城に相応しい規模のお城です。
一見すると単純なひな壇型の縄張りに見えますが一旦城地に入るとその郭や門の位置が巧みに配置され訪れる人に「こりゃ攻めにくい」と思わせる城です。
今現在築城400年行事として備中櫓の復元工事中一旦分解して組み直した石垣と不足した部分を補う新たな石とのコントラストが興味深い。
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