| 小倉城 kokura-castle |
福岡県北九州市小倉区城内 |
 |
|
|
 |
天守
「南蛮づくり」「唐づくり」と呼ばれる。
現在は装飾的な破風がついているが、もともと破風はなくシンプルな屋根であった。昭和34年に細川時代の天守を再現した。 |
|
 |
 |
|
|
| 別名 |
|
勝山城 |
築城年代 |
|
慶長7年(1602) |
| 縄張・種別 |
|
輪郭式/平山城 |
築城者 |
|
細川忠興 |
| 遺構 |
|
堀・石垣 |
| 復原 |
|
復興=天守・着見櫓 |
| 国指定 |
|
--- |
| 攻城年月日 |
|
2001 |
【構 え】
本丸を丘陵上に置き、高さ17mの石垣上に5層の天守閣構えた。盛時には148基の櫓があったという。
天守の規模としては名古屋城と姫路城の中間ぐらいの大きさである。
【歴 史】
文永年間/鎌倉時代(1264〜75)、蒙古軍の第1回目襲来があったときには、すでに緒方惟重が居城していたと伝えられる。
天正15年(1587)、豊臣秀吉が天下を統一すると、毛利勝信が8万石で入城。
関ヶ原後は細川忠興が豊前1国・豊後2郡の計36万9千石で新しく領主になった。
慶長6年(1601)まで忠興は中津城(大分県中津市)を本城としていたが、城の規模が小さく交通も不便なため、小倉平野を貫いて響灘に入る紫川の河口西側の勝山と呼ばれる小高い丘に、7年がかりで新たに築城。
寛永9年(1632)細川氏が熊本に転封すると徳川譜代の小笠原忠真が、播磨明石より入城し九州外様の監視役を勤めた。
天保8年(1837)天守火災にあい焼失、その後は再建されず。
慶応2年(1866)小倉戦争に敗れた当時の城主小笠原忠忱が退去する際城内に火を放った。
小笠原氏は10代、240年間この地を治めた。
|
|
| photo:シリウスさん/上1葉・ばつまるさん/下2葉 |
|