別名 |
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築城年代 |
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明応年間(1492-1501) |
縄張・種別 |
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---/山城 |
築城者 |
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毛利弘元 |
遺構 |
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曲輪跡・堀切・土塁 |
復原 |
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国指定 |
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攻城年月日 |
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2004/11/5 |
【構 え】
標高376mの急峻な山上に長大な平坦面と櫓台、土塁をもった本丸・二の丸・三の丸とうからなり、深い堀切や尾根続きに物見台や曲輪群、竪堀もみられ谷をはさむと出丸も設けられている。
山麓の寺跡には弘元と夫人の墓がある。
【歴 史】
正式には「多治比(たじひ)猿掛城」といい、吉田郡山城から多治比川に沿って北西4km、石州路に通じる交通の要所で、吉田郡山城の北方を守る重要な位置にある。
毛利弘元(元就の父)によって築城され、歴史的な経緯は明らかではないが、元就が幼少期を過ごした城である。
明応9年(1500)元就は4歳のとき、家督を長子興元に譲り隠居した弘元に連れられて、吉田郡山城から移って以来、大永3年(1523)27歳のときに、甥の幸松丸夭逝のあとをうけて、毛利家の家督を継承しふたたび吉田郡山城へ移るまでこの城にいた。
【攻城記】
毛利元弘の猿掛城は深さ10mはある大堀切が残ってました。
そこからは吉田の町や郡山城跡が望め郡山城、北の守りを担う城だと分かります。
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