山形城 yamagata-castle 山形県山形市霞城町



本丸の石垣と本丸大手門(下の方)は復元工事中/二の丸東大手門(左列)
最上義光の銅像(右)



別名 霞ケ城 築城年代 延文2年(1357)
縄張・種別 輪郭式/平城 築城者 斯波兼頼
遺構 石垣・堀・土塁
復原 復元=二の丸東大手門・櫓
国指定 ---
攻城年月日 2003/7/28


【歴   史】
延文元年(1356)時の幕府により、奥州探題を命ぜられた斯波家兼の嫡男、兼頼(最上氏の祖)が翌年延文2年に築城。姓を「最上」と改める。
山形城を拠点に領土拡大を続けるも戦国時代になると、隣国伊達氏の力が増し存在が危うくなる。
最上家の立て直しをようと、11代義光は一代で山形地方から村山・最上地方へと領土を拡大。
ときには、手段を選ばず近隣の諸豪族をだまし討ちにもするので、その権謀術数を駆使した行動は、「狡猾にして油断のならぬ人物」と評された。
天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めに遅参し秀吉の怒りをかったが、徳川家康の取り成しで27万石を安堵された。
さっそく、秀吉の後継者とされていた秀次に娘の駒姫(14歳)を侍妾として送り、家康には長男の義親を近侍として差し出す抜け目のなさ。(笑
その後、秀次が謀反事件で処罰されると、連座して義光の立場が悪くなったが、義親のおかげで救われる。
慶長5(1600)関ヶ原合戦では東軍(徳川)に味方し、会津の上杉景勝と戦い戦功により57万石という大禄を手にする。
すでにある建物の他に、本丸には櫓5基・二階櫓2基、二の丸には櫓13基・御3階櫓・太鼓櫓・御門4を築造、東西1.6km、南北1.9kmにもおよぶ大城郭を形成。
慶長19年義光が病没後家督は家親に相続されるもわずか3年で急死すると、家中はバラバラお家騒動勃発、最上氏は改易となった。

石高は分割され、山形城に磐木平(いわきだいら)の鳥居忠政が移封され、12番目の水野忠精で明治維新となる。

photo:シリウスさん


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