大多喜城 ootaki-castle |
千葉県夷隅郡大多喜町 |
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3層4階の天守/空掘/二の丸跡の「霧吹きの井戸」(左列)
鉄砲狭間のある塀/本丸の土塁/大多喜水道跡(右列) |
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霧吹きの井戸
初代忠勝のときに掘られたといわれ、城内20数個の井戸があった。
周囲≒17m・深さ≒20mで、日本でもっとも大きな井戸のひとつにあげられる。
当時は8個の滑車と16個のつるべ桶が完備され、水がつきることなくわくので「底知らずの井戸」と呼ばれていた。
大多喜水道跡
明治2年(1870)最後の藩主である松平正質によりつくられ、城から2km離れた滝から水を引き翌年完成した。それまでこの地域は水の便が悪かった。穴の高さはひとの背丈くらいある。
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別名 |
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大滝城 |
築城年代 |
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大永元年(1521) |
縄張・種別 |
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---/平山城 |
築城者 |
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武田信清 |
遺構 |
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二の丸跡(高校の敷地)薬医門・大井戸 |
復原 |
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推定復興=天守 |
国指定 |
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攻城年月日 |
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2003/1/2 |
【歴 史】
大永元年(1521)真理谷武田信清の築城と伝えられる。
天文年間、安房里見氏縁の正木氏が居城(大多喜根古屋城という)。
天正18年(1590)徳川四天王のひとり本多忠勝が新規に築城した。目的は、後北条滅亡後豊臣秀吉より国替えを命じられ関東へ移ったが、常陸国(茨城)の佐竹氏・下野国(栃木)の宇都宮氏・安房国(千葉)の里見氏といった徳川家に縁の無い大名に取り巻かれており、そこで江戸城を本拠地とし、重臣を周囲に配置して隣国への押えとした。
大多喜城は里見氏への備えである。
慶長19年(1614)に里見氏が改易されると軍事的な重要性がすっかり失われた。
本多忠勝10万石の後、城主が幾たびか変わったが、わすか禄高2万石で明治維新を迎えた。
【資 料】
-フィリピン群島臨時長官ドン・ロドリゴの「日本見聞録」より-
慶長14年(1609)9月、任期を終えてメキシコへ向う途中のロドリゴは暴風雨に遭い遭難し、夷隅郡の海岸(御宿町岩和田)に漂着した。
この珍客を忠勝次男忠朝が大多喜城に招き接待をしたのだが、そのときロドリゴが城の観想を書いている。
当時の要害堅固さや雅さがよくわかる。
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第一の門の外に深い濠があり釣橋がかかり、鉄製の門と≒15mの高い城壁で構築され、武装した銃者が100人待機する。
さらに100歩進むと第二の城門があり、大きない切石(きりいし)で積んだ城壁の手前に幅広の深い空堀がめぐらされ、野菜畑や田もあり、ろう城としても半年は落城することはないだろう。
御殿は金銀で装飾を施し、結構を極めた城主の御殿が床から天井まで木でできているのに非常に美しい。
武器庫は地方の一城主が所持するとは思えないくらいの量が収蔵してあった。
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このような内容が紹介されている。
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photo:あられ |
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