姫路城 himeji-castle 兵庫県姫路市本町

天守・乾曲輪より(上)/菱の門(中)/はの門への通路(下)

天守
外観5層、内部地上6階・地下1階。直径1mの2本の柱で支えている。
菱の門
「櫓門」という形で、二の丸と三の丸を区切り、両柱上の冠木に木彫りの菱紋があるのが名の由来。
安土桃山様式で城中最大。


別名 白鷺(はくろ)城 築城年代 元弘3年(1333)
縄張・種別 螺旋式/山-平山城 築城者 赤松則村
遺構 大天守・小天守・渡櫓・櫓・門・石垣・堀・土塀 etc
復原 ---
国指定 特史 国宝=大天守・小天守・渡櫓8件 重文=渡櫓・櫓・門多数 etc
攻城年月日 ---


【歴   史】
元弘3年(1333)播磨の豪族赤松則村の築城。建武の中興にあたって、護良(もりなが)親王の命で兵を挙げ、播磨から京に向かう途中のこの地に砦を築いたのがはじまり。
城のある丘を「日女道丘」のちに「姫山」、山陽道と山陰道とを結ぶ出雲、因幡、但馬3街道の分岐点で交通上の要である。で、「姫路」となった。
天正5年(1577)戦国の世には、織田信長から命をうけ毛利討伐に向かった秀吉が、ここを中国平定の根城とするために築城した。
天正10年(1582)織田信長が本能寺で明智光秀に討たれると、姫路に木下家定を城代として残し、伝説の中国大返し、そして山崎の合戦となる。天下統一を果たすと大阪城を居城としたので、姫路城は羽柴秀長、家定と城主が変わる。
慶長5年(1600)関ケ原の合戦で中立に立っていた家定は、家康に疎んじられ移封。翌年三河国吉田城主池田輝政が15万石から、一躍播磨国52万石の太守として入城した。
慶長6年(1601)から9年の歳月を要し大がかりな改修工事が行われた。
天守に限って記すと、本丸の最後部に5層の天守閣をつくり、これと3層の天守3棟とを渡櫓でつなぐ連立式天守群とした。外観は入り母屋屋根をかけた2重の櫓の上に、順に小さくなる3重櫓をのせた形。随所に観られる複雑な階調が美しさを際立たせている。

photo:荒賀源外さん


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