別名 |
|
現:武田神社 |
築城年代 |
|
永正16年(1519) |
縄張・種別 |
|
---/平城(中世館) |
築城者 |
|
武田信虎 |
遺構 |
|
曲輪跡・井戸・堀・石垣・土塁 |
復原 |
|
--- |
国指定 |
|
史跡 |
攻城年月日 |
|
2004/4/18 |
【構 え】
甲府盆地の北側に位置する。
東西≒284m・南北≒193mで、当初は東・中郭がありほぼ正方形をしていたが、後に拡張され西・北・梅翁(ばいおう)を合わせ5つの郭中心に北側にはさらにいくつもの小郭が配置される。(但し、梅翁郭は武田氏滅亡後に築かれたという)これらの郭はぐるりと3〜6mもの土塁で囲まれ、さらに外側には深くて広い水堀がめぐらされていた。
【歴 史】
永正16年(1519)武田信虎が石和(いさわ)の館を甲府に移したのがはじまり。
躑躅ヶ崎館の北2.5kmの積翠寺(せきすいじ)山には、詰の城「要害城」が築かれており、大永元年(1521)駿河国(静岡県)の今川義元に攻め込まれた際には避難所として使われたという。
天文10年(1541)信虎は子の晴信(信玄)により追放され今川氏を頼り駿河へ落ちた。
信玄は躑躅ヶ崎館を拠点に幾多の戦を遠征という形で行い、その最大領土は本国の甲斐、駿河と信濃の大半、上野・遠江・三河の数郡、美濃・飛騨・越中の一部にまで及び、今川・北条・上杉とうの戦国大々名との抗争が絶えることはなかった。
永禄7年(1564)から5回に亘る上杉謙信との「川中島合戦」有名だ。
元亀3年(1572)京へ上る目的で征途についた信玄は、12月22日遠江の三方ヶ原で徳川軍を破ったものの病に倒れ、翌年4月12日帰国の途中、信濃・駒場(下伊那郡阿智村)で死去。
天正3年(1575)家督を継いだ勝頼が長篠合戦に敗れ、織田・徳川連合軍を迎え撃つため新府城(山梨県韮崎市中田町)に新城を建設すると躑躅ヶ崎館の役目は終わった。
−長篠城−
その後、甲府城が築かれるまで館跡を修理して各将に使われていたという。
|
|