甲府城 koufu-castle 山梨県甲府市丸の内

稲荷櫓/銅(あかがね)門跡/本丸/鍛冶曲輪門/長塀と掘(左列)
遊亀橋と一二三段の石垣/天守台/稲荷門/内松陰門/狭間から躑躅ヶ崎館方面(右列)

稲荷櫓
城内の鬼門にあたる北東に位置するところから「艮(うしとら)櫓」ともいわれ、江戸時代には武具蔵として使われていた。
古写真で確認すると明治初年まで残ってた建物で、調査の結果2度にわたり建築した痕跡があるという。
現在の建物は遺構や絵図面を基にして、できるだけ当時の姿で平成16年に復元したもの。
外観は2層の入母屋造りで北側(写真参照)と東側に石落しがある。規模は南北(梁間)5間(10m)・東西(桁)6間12m。
石垣
戦国時代の末期に先端技術であった「穴太(あのう)積み」と呼ばれる技法で、東日本では屈指の石垣だ。
「穴太積み」は、自然石や荒割りした石を用い、高石垣を築く方法で、大小様々な石を組み合わせて積み上げ、石の隙間には小さな石をしっかりと詰め込むのが特徴。強固な城壁となる。
他には、滋賀県「安土城」・神奈川県「石垣山一夜城」・佐賀県「名護屋城」とう。
写真の白い部分は「矢穴(やあな)」という、大きな石を割るために開けられた四角い穴。
4寸矢穴(≒12cm)・400年前の築城期のもので野面積み石垣と3寸矢穴(≒9cm)・300年前の江戸時代中頃のものがある。


別名

甲斐府中城・舞鶴城
一条小山城・赤甲城
築城年代

天正13年(1585)

縄張・種別 ---/平山城 築城者 徳川家康
遺構 天守台・本丸・二の丸・曲輪跡多数・堀・石垣
復原 復元=稲荷櫓・稲荷門・鍛冶曲輪門・内松陰門 etc
国指定 ---
攻城年月日 2004/4/18


【歴   史】
天正10年(1582)3月11日、甲斐国は武田勝頼が家臣である岩殿城小山田信茂の裏切りに遭い、天目山で自刃して後は織田信長の領土となる。
甲斐の国主となった河尻秀隆が武田家の旧臣を中心とした国人衆の一揆に悩まされているうちに、同6月2日、京の本能寺において信長が明智光秀に討たれた。
この事件で関東管領職の上野国・厩橋城(群馬県前橋市)にいた滝川一益は身の危険を察知し、伊勢(三重県)に逃亡。
秀隆も旧武田領から美濃国(岐阜県)を目指して脱出を図り一揆と一戦交えるが岩窪(甲府市岩窪町)で討ち死にしてしまう。
甲斐と信濃は領主が不在となり、なんと日本の真ん中に空白地帯ができてしまった。
天正13年(1585)徳川家康が支配に乗り出し、重臣の平岩親吉に築城を命じた。
天正18年(1590)家康が豊臣秀吉により関東に移封されると、秀吉の甥である羽柴秀勝、加藤光泰、浅野長政・幸長と城主が変わり城郭も整い、浅野氏のときに完成。
慶長5年(1600)関ヶ原合戦以降は徳川の城となる。
宝永元年(1704)城主・徳川綱豊が5代将軍・綱吉の養嗣子となり江戸城西の丸へ移ると、柳沢吉保(綱吉の側用人として有名)が城主となり、城下町も整備されて大きく発展。
吉保の嫡男・吉里が大和郡山城へ転封されると、甲斐の国は天領なり甲府勤番の支配下に置かれた。
享保年間には大火災で本丸御殿や銅門を焼失、「鶴舞城」と呼ばれた優雅な城の姿は失われることとなる。

photo:あられ


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