柳川城 yanagawa-castle 福岡県柳川市本城町






堀の水門と石垣/天守台跡(左列)
立花宗茂具足(右)



別名 --- 築城年代 文亀年間(1501〜04)
縄張・種別 連+梯郭式/平城 築城者 蒲地治久
遺構 石垣・堀
復原 ---
国指定 ---
攻城年月日 ---


【歴   史】
文亀年間(1501〜04)筑後(福岡県)三潴(みずま)郡蒲地一帯を本拠とする蒲地治久が築いたとも、永禄年間(1558〜70)に孫の鑑盛(あきもり)が築いたともいわれる。
天正6年(1578)豊後(大分県)の大友宗麟に属していた鎮並(鑑盛の子)は、耳川の合戦(高城・小丸川合戦)で大友氏が島津氏に大敗してのち、大友氏を見限って肥前(佐賀県)の竜造寺隆信に属することとしたが、竜造寺氏の待遇が不満で反旗を翻す。そのため柳川城は大軍をもって囲む竜造寺氏と一戦を交えるが、城方もよく堪え筑後山門郡の鷹尾城主田尻鑑直の仲介で和睦した。
が!天正9年(1581)蒲地氏が薩摩(鹿児島県)の島津氏に通じているのでは、と疑った隆信は須古城(肥前の隠居所)へ招き、200足らずの鎮並の道中を待ち伏せして襲い謀殺。さらに竜造寺軍は柳川城を攻め、主のいない城を陥落させ蒲地氏を滅亡させた。
天正15年、竜造寺氏の持城となった柳川城ではあったが、豊臣秀吉による九州平定で、糟屋(かすや)郡の立花宗茂(統虎)が13万2千石で入封。宗茂は大友氏に属する戸次鑑連(立花道雪)の養子で、実父も同じく大友氏支配下の高橋鎮理(紹運)。両将とも猛将として知られ、道雪に男子がなかったので、紹運の息子を娘の宮永殿の婿にし跡継ぎとした。
慶長5年(1600)関ヶ原合戦のとき宗茂は西軍につき、前しょう戦ともいえる東軍の近江(滋賀県)大津城攻めの主力となり、大津城を開城させたが西軍は負けてしまった。ただちに兵をまとめて大坂へ行き、毛利輝元にろう城を勧めるが、その気がないとわかると久留米城主毛利秀包を説いて、ともに九州へ戻り東軍相手に徹底的に戦おうと勧めた。秀包も従ってくれず、やむなく島津義弘と一緒に船を並べ帰路につき柳川へ帰還を果たす。しかしまだ戦闘態勢を崩さずろう城、鍋島氏相手に一戦を交えたが孤立無援のろう城では意味がなく、黒田如水・加藤清正に説得されてようやく開城。
一旦は浪人する宗茂だが、武勇を惜しむ徳川家康により数千石を与えられる。
慶長8年には陸奥(福島県)棚倉に1万石が支給され、以後度々加増。
元和6年(1620)大坂の陣での戦功を認められついに柳川10万9千600石の領主として返り咲いた。
柳川城には関ケ原合戦以後、田中吉政・忠政父子が三河(愛知県)岡崎城より封じられていたが、2代目の忠政に嗣子がなく家は断絶。
この時代に近代城郭として大改修され5重の天守を備えた。
以後、立花氏が12代250年在城。

【攻城記】
城の回りを囲んでた石垣と広いお堀は消失し本丸の跡は柳河高校・柳河中学と、城の痕跡は跡形もありません。
ただ、かろうじて天守台跡の石垣にお城の名残を留めてますがその天守台の石垣も大部分が柳川の岸壁補修工事に使われた為まるで柳河の天守は土塁の上に築かれたかの様な印象を与えます。
両城(柳河城・三池陣屋)とも無惨な状態で残るだけに立花家別邸「御花」の素晴らしさが際立ちます。
当時の雰囲気を今に伝える明治に建てられた西洋館、数百羽の鴨が群れなす松島を模したと言う庭園、そして重文・国宝級展示物の数々、見事です♪
立花道雪伝の槍の穂先の展示は無かったものの円の脇立てが有名な立花宗茂の具足を始めとする歴代藩主の具足や兜の数々や刀剣類、もうヨダレじゅるじゅるでしゅ。
例え柳河城は見なくても、やはり宗茂ファンに「御花」は外せませんねぇ。

photo:ばつまるさん


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