二本松城 nihonmatsu-castle 福島県二本松市郭内 3

二重櫓と城址の碑と手前は「少年隊の像」/本丸下南面大石垣/本丸石垣/砲術稽古場跡(左列)
箕輪門櫓門/搦手門跡/天守台跡/洗心亭(右列)

本丸下南面大石垣
二本松城の最も古い石垣のひとつで、野面積(自然石)と荒割石が用いられ、古式の「安太積み」と呼ばれ、
大小の石材を横に積み、数石しか横目地の通らない「布積み崩し」という積み方。勾配は、直線的で緩やかな「法(ノリ)」を主体に構築され、天端付近は積み直された形跡があり、本来はさらに数段高い石垣であったと考えられる。
慶長初期(1590)、この城が会津領の支城となったころ、蒲生氏郷に抱えられた石積みの技術集団「安太衆」により築かれたという。
搦手門跡
城の裏手にあたる門で石垣と門柱を建てた礎石が残り、慶長初期に建てられ、その後に数回修改築されたことが絵図面で確認された。
砲術稽古場跡
この平坦地は「少年隊の丘」と呼ばれ、戊辰戦争直前まで砲術稽古場として砲術道場があった。
洗心亭
城内にいくつかあった茶亭のひとつで、「墨絵の御茶屋」といい、創建年代は17世紀中頃といわれる。天保8年(1837)崖崩れのため阿武隈川畔の地蔵河原に移築し、藩主のための釣茶屋として利用されていたが、明治30年この地に復原された。


別名 霞ヶ城 築城年代 応永21年(1414)
縄張・種別 ---/平山城 築城者 畠山満泰
遺構 石垣・天守台
復原 模擬=箕輪門櫓門 etc
国指定 ---
攻城年月日 2004/6/20


【歴   史】
2つの城からなっていてる。そのひとつは白旗山(標高345m)の山頂にあり、南北朝時代の奥州探題・畠山氏の古城。もうひとつは山麓にめぐらされた石垣が美しい藩政時代の丹羽氏10万石の城。

正永元年(1346)、南北朝時代に畠山高国が奥州探題としてこの地に赴任したことに始まる。
応永21年(1414)畠山満泰により城が築かれ、勢威四隣を圧したが、12代義継のとき伊達政宗の父・輝宗とさしちがえ、政宗と抗争の果てに、鎌倉以来の名門畠山氏は滅亡。
その後、伊達・葦名・蒲生・上杉・加藤と領主がかわる。
寛永20年(1643)に丹羽光重が白河城より入封、7代の高寛の善政が伝えられている。

慶応4年(1868)、幕末の激動期に二本松藩は奥羽越列藩同盟に参加し、殺到する薩長藩を中心とする官軍を相手に果敢なる抗戦を行ったが、同年7月29日猛攻を受けて城は陥落。
この戦いでは、会津の「白虎隊」ほど組織的なものではないが「二本松少年隊」が結成され、13,4の少年も参加し、鉄砲を手に最大の激戦地大壇口で勇戦。
一時は官軍を足止めさせたものの≒20名が戦死、城下の大隣寺に葬られたという。

photo:あられ


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