白河城 shirakawa-castle 福島県白河市郭内小峰公園

城址の碑の後は前御門と三重櫓/前御門/本丸高石垣/本丸を囲む石垣(左列)
三重櫓/桜御門跡/石垣の上は富士見櫓跡/本丸より市街地を臨む(右列)

三重櫓・前御門
櫓は本丸北東に建ち3層3階、高さ14mの入母屋形式、通しの柱が特徴で2階の張り出し部分は会津若松城に酷似しているとか。
前御門は別名「表御門」ともいわれ、城の正門にあたり櫓門の形式で史実に基づき復元された。(桜御門は裏門にあたる)


別名 小峰城 築城年代 興国年間(1340-46)
縄張・種別 梯郭式/平山城 築城者 結城親朝
遺構 堀・石垣
復原 復元=三重櫓・前御門
国指定 ---
攻城年月日 2004/6/20


【構   え】
阿武隈川の南岸に面した小峰ヶ岡とよばれる東西に長い標高370mの独立丘陵を利用して築かれた。
≒60万uの規模を持ち、縄張りは丘陵山頂部に本丸と帯郭を設け、東南に二の丸・三の丸を配し、その周囲を石垣と堀で囲い、南に大手門、北に尾廻門(搦目門)、東に横町・田町門、西に道場・会津門を設置し不整形5角形を呈していたという。

【歴   史】
興国年間(1340−46)南北朝の武将・結城親朝により築かれたのが始まりといわれ、その後白川結城一族の小峰氏が居城とし、永正年間(1504−20)には白川結城氏が本城とした。
天正18年(1590)豊臣秀吉の奥羽仕置きにより白川氏の所領は没収され、蒲生・上杉氏支配による会津藩の城代が置かれた。
寛永4年(1627)、奥州白河の関門に近く重要なこの地に本格的な近代城郭として、小峰城を大改修したのは丹羽長重である。
長重は織田信長・豊臣秀吉に仕えた丹羽長秀の長男だが、家督を相続した後世渡りが上手くなかったようで、秀吉や家康に何度も領地替えをさせられたり石高を減らされたりあまりよいことがなかったが、ようやく10万石を与えられこの地に入封した。
軍学・築城術に長けた長重は石垣で厳重に防備された城をめざし、その威容は伊達・上杉・佐竹といった奥羽の外様大名を威圧し続けたという。
光重の代に二本松城へ転封を命じられ、ここでも大改築を行った。(ちなみに白河城へ移る前、棚倉城...福島県東白川郡棚倉町...も大修築しているのだ)
その後の城主は、榊原・本多・奥平・越前松平氏といった親藩・譜代大名が任ぜられ、寛保元年(1742)久松松平氏が入封。
天明3年(1783)、奥州は後に「天明の大飢饉」といわれる飢饉に見舞われ、数十万人が犠牲になったという。
白河藩も米や作物が壊滅的な被害を受けたが、藩主の松平定信は上方で大量の米を買い、支領の越後(新潟県)柏崎でとれた米を白河へ運び百姓や町人にまわしたので、白河藩ではひとりの餓死者も出さなかったというが...真相は???
松平氏が桑名城へ移封になると、武州(埼玉県)忍城から阿部氏、のちに一時幕府直轄領となり、まもなく二本松藩丹羽氏の管轄となった。

慶応4年の戊辰戦争では≒100日間にわたる白河口の激戦が有名。
会津藩・仙台藩とうの羽越列藩同盟が、藩主不在の白河城に集結し、奥州街道を北進する新政府軍と激突した。

photo:あられ


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