忍城 oshi-castle 埼玉県行田市本丸

さきたま風土記の丘/さきたま古墳群を参照。


御三階櫓/大手門/石田三成本陣跡の丸墓山古墳(左列)
石田堤/鐘櫓・時の鐘/丸墓山古墳より忍城方面を臨む(右列)


別名 浮城 築城年代 延徳3年(1491)
縄張・種別 ---/平城 築城者 成田親泰
遺構 堀・土塁
復原 御三階櫓
国指定 ---
攻城年月日 2003/8/4


【歴   史】
永禄元年(1558)、小田原後北条氏の勢力拡大に、支えきれなくなった山内上杉氏の当主憲政は越後国上杉謙信を頼り落ちのびた。※武蔵松山城を参照。
永禄4年(1561)、謙信は憲政を伴ない小田原城を攻めたが失敗に終わる。
憲政の養子となった謙信は、閏3月鎌倉八幡宮で、関東管領職就任と上杉家の家宝を譲り受ける式典を催した。このことで、成田長泰は主家の山内上杉から家督を譲られた謙信に仕えることとなる。
式典終了後、作法の違いから公衆の面前で謙信に大恥をかかされた長泰は、謙信を憎み鎌倉から忍城に引き返し後北条に寝返ってしまう。
このとき、謙信の理不尽で無謀な行いを、以前から不愉快に思っていた諸将も大勢反旗を翻すこととなる。
天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻め、北条氏政・氏直父子が立てこもる小田原城を、豊臣連合軍22万の兵が取り囲んだ。北条の支城は次々に落とされていく。
この当時の忍城の当主は成田長泰の子氏長だ。氏長は主力部隊を連れ小田原城に参陣していて、忍城が2万数千の豊臣勢(直属部隊...石田三成・長束正家・大谷吉継/関東豪族部隊...佐竹義宣・宇都宮国綱・結城晴朝)に囲まれたときには留守であり、守るはわづかに2千600(ほとんど年配者と女子と子供と町人や百姓)。
えええーーー、それはたいへん!
石田三成は忍城の地理・地形(荒川と利根川の氾濫時につくられた自然の堤防あり・周囲が沼地)を観察し、備中高松城とよく似ていることに気がつくと、”水攻め”作戦を開始。
周囲に26kmもの堤を築き水没させようとするが、大雨で堤が決壊したり味方に水死者を出したりで、結局落とせなかった。忍城は水に浮かんでいるように見えたという。
小田原城が包囲されて3ケ月、抵抗しきれないことを悟った北条父子は開城し、小田原城は陥落した。
しかし、まだ忍城は持ちこたえている!やるなあ。
城主の氏長が城兵を説得して、やっと降伏した。
氏長は城と領土を没収されたが、秀吉の大好きな黄金を送ったとかで、下野国(栃木県)烏山に3万7千石の領土を与えられた。

徳川の城となり御三階櫓が建てられ、10万石に相応しく修繕、歴代城主には親藩か譜代大名があてられた。

photo:あられ


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