別名 |
|
--- |
築城年代 |
|
応永年間(1394-1427) |
縄張・種別 |
|
---/平山城(丘城) |
築城者 |
|
上田氏 |
遺構 |
|
曲輪・土塁・空掘 |
復原 |
|
--- |
国指定 |
|
--- |
攻城年月日 |
|
--- |
【歴 史】
天文15年(1546)、関東の覇権をめぐり、しのぎをけずる後北条氏Vs山内上杉氏との勢力図の境界に位置し、両軍が松山城を奪取しようと再三試みる中、川越の夜戦で山内上杉氏が大敗、松山城主の上田氏は主家の山内上杉氏を見限って後北条側につく。
永禄元年(1558)、山内上杉氏の当主憲政が後北条の攻撃をかわせず、越後の上杉謙信のもとに落ちのびたので、山内上杉氏に代わり関東を支配下に置こうと、謙信が出撃(9万の軍勢とも)を決定。
永禄4年(1561)、ついに上田氏の守る松山城は謙信の大軍に進撃され、支えきれずに安戸城へ退却した。
岩槻城主である太田資正が松山城の留守を任され、謙信は越後へ凱旋した。
これは奪回のチャーーーンス!
だけど...、
後北条が3万の兵をもって攻撃しても堅固な構えの城は落とせない。
さまざまな作戦がとられたが、カッチリ城を包囲して、水の便を断つ作戦がとられ大成功、たてこもる上杉軍と和睦が成立し、城は上田氏のもとに還った。
が...この続きは騎西城へGO!
天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めに際し、上杉景勝・前田利家軍に攻め込まれ落城。
<伝説>
天正の落城が迫ったころ、城主の妻女が敵に捕らわれることを懸念して、城山の脇を流れる市野川に身を投げた折、亡骸がひと目にふれないようにと水が濁ることを念じ、だいじな簪(かんざし)を投じたところ、清流がまたたくまに濁り、妻女は大蛇になったという。
|
|