会津若松城 aizuwakamatsu-castle 福島県会津若松市追手町 1-1

天守遠望・本丸前広場はさくらの名所・茶人千小庵作と伝えられる茶室麟閣の門(左列)
石垣・南走長屋と干飯櫓(右列)

下の写真は天守/鉄張りで大砲の死角となった鉄門(kuroganemon)


別名 鶴ケ城 築城年代 中世戦国
縄張・種別 梯郭式/平山城 築城者 蘆名(あしな)氏
遺構 石垣・堀・土塁
復原 復元=天守・本丸鉄門
国指定 史跡
攻城年月日 ---・2005/8/吉日


【歴   史】
中世戦国の世にあっては蘆名(あしな)氏の黒川東館が前身。
天正17年(1589)、南北朝以来南奥州一帯を支配していた蘆名盛氏は、奥州の覇権をかけて伊達氏と死闘を繰り広げるも、摺上原(すりあげはら)の合戦で敗北。
天正18年(1590)、蘆名氏滅亡後、伊達氏がこの地をおさめたが、豊臣秀吉の「奥州仕置」により、蒲生氏郷が派遣された。
文禄元年(1592)、氏郷は城を改修し”黒川”と呼ばれていた城下を”若松”、新たに城も”鶴ケ城”と名づけ、伊達氏はじめ奥州有力大名の監視にあたった。
天守台を天守建築より大きくし、本丸の回りに帯曲輪(おびぐるわ)を配し、多聞櫓で区画、廊下橋門前に二の丸を配置する構成は秀吉の大坂城と同じ構えだとゆう。
氏郷の遺構である石垣は野面(のづら)積みとゆい古式の手法と伝えられ、7重の天守があったとゆわれるが、調査により5重6階地下1階の構えであった。
慶長3年(1598)、氏郷の死去により、上杉景勝120万石の城下となった。
関ヶ原合戦敗北で上杉氏は米沢へ減封され、蒲生氏郷の嫡男である秀行が入封となる。
慶長16年、会津地方を大地震が襲い、氏郷が築いた天守や石垣は崩壊してしまった。
寛永4年(1627)、加藤嘉明(かとうよしあきら)が入城、城を復興した。
その後、加藤氏はお家騒動で改易。保科正之23万石で入封。9代藩主松平容保(かたもり)_3代より松平姓を名乗る_の代に明治維新を迎える。

【攻城記】
-THUDさん-
毎度ご無沙汰いたしております。いかがお過ごしでせうか??
ええ、夏休みを利用し会津へ・・・行って来ました。
前日は山形蔵王でお釜に会わずにお釜を見学・・・(辛うじて見えましたが・・・・地震にも遭っちゃいました)

photo:THUDさん/5葉
photo:あぱっちさん/2葉


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