米沢城 yonezawa-castle 山形県米沢市丸の内 1

旧本丸太鼓門跡/堀/旧上杉鷹山邸
/上杉謙信の銅像

上杉謙信を参照。


別名 松岬(まつがさき)城 築城年代 暦仁元年(1238)
縄張・種別 ---/平城 築城者 長井時広
遺構 堀・土塁
復原 ---
国指定 ---
攻城年月日 2003/7/28


【歴   史】
暦仁元年(1238)長井時広が築城。
その経緯は、源頼朝の鎌倉幕府にあって、大江広元(公文所長官・明法博士を歴任)の次男時広が、奥州藤原泰衡討伐の戦功により、出羽国置賜(おきたま)郡長井ノ荘を賜り、長井姓を名乗った。
時代が下ると隣国の伊達氏の勢力が伸びてきて長井氏を圧倒し、ついに15代伊達晴宗が米沢城主となる。(16代が輝宗・17代が政宗)

天正18年(1590)政宗は豊臣秀吉の小田原攻めに遅参した罰として、伊達氏がいままで手に入れた会津・米沢を没収され、新領地の陸奥(宮城県)岩出山城へ転封になると、会津若松城主蒲生氏郷の支城となる。
慶長3年(1598)、蒲生氏が宇都宮へ移封され、越後春日山城から会津若松城へ上杉景勝が120万石で入り、米沢城は上杉氏の家老である直江兼続の城となった。
慶長5年、関ヶ原合戦で西軍に味方して、東軍の伊達氏や最上氏と交戦、互角以上に戦ったものの、関ケ原で西軍が負けてしまい、戦後処理により会津若松城は召し上げられ、景勝は兼続の米沢に移る。
120万石が30万石に!
どうなってしまう上杉家!
大幅な禄高カットに人員整理を強いられ、会津で抱えられた新参者は暇をあたえられるが、謙信時代から苦楽を共にしてきた譜代の者を召し放つことはできず、6千人(50〜60万石の大名家臣規模)で米沢へ移った。
もともと30万石のところに120万石が押し寄せたので、極度の住宅不足、俸禄は1/3に減らされ、苦しい苦しい忍耐生活が始まった。
半世紀も過ぎたころ貧しいなりに生活は落ち着きをみせるが、ここでまた大事件発生!
寛文4年(1664)、4代藩主綱勝が27歳の若さで急死、跡継ぎを決めていなかったのだ。
「跡継ぎを明確(幕府への届出)にしておかないとお家断絶」
が当時の決まりで、なんとか実力者の保科正之に助けてもらい、吉良上野之介義央(通称吉良ぢいさん)の子綱憲(つなのり)を養子に迎え改易は免れたが30万石が15万石に!
もう死ぬか生きるか、というところまできているのに人員整理は行わず、俸禄を一律1/2に減らした。
このころから下級武士は農耕に従事する自給自足生活、彼らを「原方衆」と呼ぶ。
綱憲は藩の財政をかえりみず、事態は悪化する一方で、9代重定は困窮に耐えられなくなり、幕府に米沢15万石を返上しようと考えたほどだ。

そこで活躍するのが、10代治憲(鷹山)だ。
宝暦元年(1751)日向(宮崎県)高鍋藩主(高鍋城)秋月種実の次男として生まれ、祖母が米沢藩出身という縁で10歳のときに重定の養子となった。14歳から儒学者の細井平洲に師事。17歳で家督を継ぎ、20万両(年収の3倍)という膨大な借財を抱える上杉家を立て直そうと、全力で立ち向かうこととなった。
自ら手本となるよう質素倹約に努め、風土にあった産業を興し、一部の無関心な藩士や足をひっぱる藩士には時間をかけて改革の必要を理解させた。
35歳で引退。
72歳で亡くなったときに、米沢藩の借金はなくなり、蔵には5千両の余剰金があった。
その後、東北地方で大飢饉が発生しても領民のひとりとて餓死する者はなかったと伝えられる。

城郭は地味で質素、本丸・二の丸を囲み、総構えの三の丸を配し、天守閣は設けず物見用の御三階櫓がある。
明治7年ほとんどの建物が破却された。

photo:シリウスさん


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