水戸城 mito-castle 茨城県水戸市三の丸

薬医門/旧県庁跡から藩校弘道館へ続く土塁/大手橋/本城の出丸・偕楽園の好文亭(左列)
旧県庁跡にある堀/三の丸跡の藩校弘道館/二の丸の土塁桝形/大極砲(右列)


薬医門
旧水戸城現存の建物で、正面の柱が3つ、出入口は中央だけの三間一戸の薬医門に2つの脇扉がついている形式。建立時は構造や技法から見て安土・桃山期と推定される。
各部分に用いている木材の木割(大きさの割合)は太く、屋根面の相交わる部分に使われている棟木は見えるようになっている「化粧棟木」で棟木を支えるとともに装飾となる「板蟇股(いたかえるまた)」は雄大、また「化粧垂木」の反り返り増しの技法、柱の上にあって軒桁を支えている「実肘木(さねひじぎ)」(横木)やえぐって曲面した「繰形(くりがた)」の部分の形状からみると、佐竹氏の時代(1591〜1602)に創建され、徳川氏に引き継がれたものであろう。
城門のあった場所は諸説あるが、風格からして橋詰御門(本丸表門)と思われる。
一時城外に出されていたものを、本丸に近い場所(高校の敷地)に移築した。
藩校弘道館
9代藩主徳川斉昭(烈公)が、天保初年から内外の危機打開のため、全国に率先して始めた改革の眼目としたものは、藩校弘道館における人材の育成であった。
天保12年(1841)から活動を開始したが、教育の主旨目標を示した弘道館記や画期的な教育制度は、水戸藩士ばかりでなく全国の志士に大きな影響を与えた。
文武両道を講じ、当時の藩校としては珍しい医学・天文学も学ぶことができた。
偕楽園(かいらくえん)
徳川斉昭(烈公)が自ら造園計画の構想をねり創設したもので、特に好文亭については烈公が自らその位置や建築意匠を定めたといわれる。
天保12年(1841)に造園開始、翌13年に本園、桜山および丸山が開園。本園には梅を中心に孟宗竹・霧島つつじ・宮城野萩とうが、飛び地になっている桜山と丸山には桜が植えられ、周辺の湖水と田園風景を取り入れ自然との調和を図り、四季の風情や明暗に富んだ趣のある造りで、名園として日本三大庭園のひとつとなっている。
「偕楽園」の名は、中国の古典である”孟子(もうし)”の「古(いにしえ)の人は民と偕(とも)に楽しむ、故に能(よ)く楽しむなり」という一節からとったものだ。
面積は全体で156,008uと広大。
大極砲
徳川斉昭(烈公)は欧米の侵略が、やがてわが国にも迫ってくるのを察して、尊王攘夷を唱え、思想統一と武備の充実に邁進(まいしん)した。
その一環として、領内の梵鐘や仏具を集め、天保13年(1842)から翌年にかけて、形式の違う75門の各種大砲を鋳造。この「大極砲」はそのうちのひとつで、形式は白砲に属し、”天砲”といった。
口径36cm、斉昭の筆による「大極」の銘があり、ケヤキ材の径58cm・厚さ32cmの四輪の車架がつけてある。なお、鉄製の弾丸2発が添えてあり、これは戦艦や砲塁とうを破壊する破裂弾である。
嘉永6年(1853)米艦隊(ペルリ)渡来により江戸湾防備充実のため、この一門を残して他の74門は弾薬をそえて幕府に献上、当時すでに水戸藩には、多くの大砲が備えつけられていた。
この後、斉昭は城の東側細谷に神勢館を創設し、5町の矢場を築いて、大砲射撃の演習をさせ、さらに館に付属した鋳砲場を設けて青銅砲を、那珂湊には反射炉を築き鉄製の大砲を鋳造させ武備の充実をはかった。


別名 馬場城 築城年代 建久年間(1190-98)
縄張・種別 連郭式/平山城 築城者 馬場資幹
遺構 弘道館・空堀・土塁
復原 移築復元=薬医門
国指定 特史 重文=弘道館正庁・至善堂
攻城年月日 2003/9/7


【構   え】
水戸城は北に那珂川、南に桜川と千波湖にはさまれて、東西に長くのびた丘陵地帯に築かれている。
紀伊徳川家・尾張徳川家とともに「徳川御三家」の城であるが、紀・尾に5層6階の大天守がそびえていたにもかかわらず、御三階櫓(ほとんど物見櫓)が建てられていただけで簡素なものであった。
石高を比較しても、紀伊55万石・尾張62万石に対し25万石(のちに35万石)と格差がある。

【歴   史】
建久年間(1190〜98)馬場資幹が居館を構築。
応永23年(1416)江戸道房が攻略、城郭として整備。
天正18年(1590)佐竹義宣が江戸氏を攻略し、文禄2年(1593)大改修を行う。
慶長7年(1602)関ヶ原合戦の2年後徳川氏の城となる。
家康は天下分け目の関ヶ原で日和見的態度をとった佐竹義宣を秋田へ移封、第5子の武田信吉・第10子徳川頼将らを水戸に据えたが、第11子頼房が25万石で御三家水戸家を興し、後に35万石として明治維新を迎えた。
”黄門さま”で知られる2代光圀は「大日本史」を編纂したことで有名だ。

photo:あられ


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