高知城 kouchi-castle 高知県高知市丸の内

杉の段より本丸を臨む(左上)追手門(右上) 本丸御殿舎・懐徳館(下)


別名 大高坂城 築城年代 慶長6年(1601)
縄張・種別 ---/平山城 築城者 山内一豊
遺構 天守台・本丸御殿舎・櫓 etc
復原 ---
国指定 史跡 重文=天守・懐徳館舎・追手門・黒鉄門・廊下 etc
攻城年月日 2002/7/2


【歴   史】
築城年代や規模は不明だが大高坂(おおたかさ)という豪族の城があったという。
建武3年(1336)、4年間に亘る南北朝の戦いで、南朝に味方し奮戦したのは少年城主松王丸。興国元年(1340)攻撃側は、讃岐にいた細川定禅に救いを求め、この年ついに城は敵の手に落ち、松王丸も城と運命をともにした。
天正16年(1588)四国の覇者長宗我部元親が岡豊(おこう)城から本拠地を大高坂城(のちの高知城)に移し、城郭と城下町の建設をはじめた。小高い大高坂山は、鏡川・江の口川にはさまれた要害の地であり、平野も開けているので町を造るには絶好の地だ。ところが雨の多い季節は両川が氾濫を起こし、思うように造成工事も進まずつに断念。
天正19年(1591)築城をあきらめ、浦戸城(高知市)へと本拠を移した。
関ケ原合戦で負将となってしまった盛親の子である元親が領土を取り上げられると、山内一豊が戦功により土佐一国の太守となる。最初、浦戸城に入った一豊であったが手狭なため大高坂城へ移転することにした。
慶長8年、元親同様洪水に悩まされはしたが、一豊自らが難工事の陣頭に立ち完成をみた。
「大高坂城」改め「河内(こうち)」と名づけられるも、「河」の字を嫌い慶長15年「高知城」と改められる。
その後、長宗我部氏滅亡で浪人となってしまった土佐の武士との軋轢もあったが、とことん反抗する者は処刑、またその他は懐柔作戦が効をせいし、山内家臣団では最下層ではあるが、武士としての身分を与え地位を保証し徐々に取り込んでいった。

photo:ばつまるさん


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