大坂城 osaka-castle 大阪府大阪市中央区大坂城

osaka-castle photo


天守/古写真と同じ堀/青屋門(左列)
左より馬印櫓・月見櫓・糒櫓/石垣(右列)

天守の形と構成
鉄筋コンクリート造り。昭和6年、”黒田屏風絵”や”モンタヌスの日本誌”を参考に豊臣時代の天守を模して復元された。大きさは徳川時代のものに似せてある。
城郭比較
天守比較 ■豊臣時代 ■徳川時代 ■復元
造営 天正11年(1583) 寛永3年(1750) 昭和6年(1931)
階層 5層8階(地下穴蔵含) 5層6階(地階含) 5層7階
基底部 12×11間 17×15間 徳川時代天守台と同
高さ 40m(石垣除く) 44m(石垣除く) 54.8m(地上部より)
古写真
セピア色の写真は、慶應年間のはじめにに撮られたもの。手前から馬印櫓・月見櫓・糒(ほしい)櫓。石垣は根石から32mあり、城内で一番の高さを誇っていた。
櫓は戊辰戦争で全焼。

セピア写真と同じロケーション。
本丸内堀は水掘だが、南面は空掘になっている。
徳川時代には二の丸の堀幅65〜100m。また、大砲攻撃を意識して、本丸は40〜60mとした。
内・外掘に加え、さらに外側北は淀川と寝屋川・平野川の合流点、これに接っする台地に本丸があり、北からの攻撃は不可能である。本丸南側の空掘は敵が集中するのを見込んで設置された。
青屋門
元和6年(1620)創建。非常口ともいうべき役目。
大戦時空襲で焼失したが、昭和45年(1970)に残材を用いて復元された。
他に大手門・桜門がある。
石垣
大坂城の石垣の規模は、他の大城郭と比較しても格別大きいのが特徴。
高さは、内堀東側(セピア写真参照)が、水面から≒24m・水深≒6m・堀底から根石≒2〜3mで、計≒32〜33mと最高。また、個々の石が丁寧に加工された切石に統一されていて、巨石(100t以上)も多く豪快だ。
一番は「蛸(たこ)石」、表面積59.43m(畳36枚分)。諸大名が分担した石垣の丁場を示す刻印がある。有名なのは、「肥後石」とよばれる巨石(京橋門枡形...縦5.8m、横14.5m)、ともかくデカイ!


別名 錦(きん)城 築城年代 天正11年(1583)
縄張・種別 輪郭式/平城 築城者 豊臣秀吉
遺構 大手門・桜門・櫓4・硝煙蔵・金蔵・井戸屋形・石垣・堀 etc
復原 天守・青屋口櫓門
国指定 特史 重文=大手門・多聞櫓・千貫櫓・乾櫓・一番櫓・六番櫓 etc13
攻城年月日 ---


【歴   史】
明応5年(1496)、本願寺八世の法主蓮如(れんにょ)が大阪に「一宇の坊舎」を建立したことにはじまる。
元亀元年(1570)6月、浅井・朝倉連合軍を破った織田信長は天正8年(1580)までの11年間に亘り本願寺攻めを決行。和睦により本願寺側が紀伊の鷺の森に退去したあと、信長は本能寺の変に倒れ廃虚になった。
天正11年(1583)、前年に主君の敵明智光秀を山崎の合戦で破り、さらに政敵柴田勝家を壊滅させた秀吉は、大阪に入り天下無双の大城郭を創築する。
天正13年(1585)に完成!最初にできた天守閣について”柴田退治記”によると「唯今成る所の大阪の普請は先ず天守台なり、この高さ莫大にして四方八角白壁翠塀の如し」とある。城地は周囲12.5Km、最上層を金瓦、その下が銀、でその下2層が鉛、さらにその下2層が石でふかれた6層の「錦城」の名にふさわしい天守閣である。
元和元年、”大坂夏の陣”で炎上焼失し、豊臣家は滅び去った。
元和5年(1619)、天下を取った徳川家康が直轄地とし、翌年藤堂高虎を普請奉行に任命、国家事業として大改築工事を行った。
寛永7年(1630)、5層6階の天守閣が完成。歴代の大坂城代は3万石から10万石程度の譜代大名を置いた。
寛文5年(1665)、落雷で焼失、以後は再建されなかった。
明治元年(1868)、徳川幕府最後の将軍慶喜は、鳥羽伏見の戦いで薩長軍に敗れ、大坂城を捨て江戸に戻ったとゆう経緯がある。

photo:にゃごりんさん1葉(上)
photo:荒賀源外さん4葉


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