別名 |
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築城年代 |
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天文年間(1532-'55) |
縄張・種別 |
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---/平山城 |
築城者 |
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立花鑑載(あきとし) |
遺構 |
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天守台・曲輪跡・堀切り |
復原 |
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国指定 |
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攻城年月日 |
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2005/4/27 |
【歴 史】
もと大友氏の根拠地で、立花城の出城であった。
天正15年(1587)豊臣秀吉は島津征伐ののち、小早川隆景を筑前の国主に封じ、この城を大改修させるとともに、「御座所」を設けさせ、事が起こった場合の備えにと九州監察の中心とした。また秀吉は文禄の役のおり、肥前国名護へ向かう途中、淀君らと立ち寄り宿泊した。
関ヶ原合戦後、慶長5年(1600)黒田長政が筑前の国主となり、やがて福崎の地に新しく福岡城を築いたので廃城となった。
山腹の名島神社は宗像三女神を祭神とし、元来神宮が峰に祀られていたのを隆景が築城するときに現在の地に移したのだという。
【攻城記】
名島城は福岡城築城の材料に使われた為石垣すら残らない城跡ですが、名島城跡に建てられた名島神社に隆景の名残を感じます。なにしろ名島神社に祀られた神は宗像の三女神、毛利氏が崇拝した厳島神社や隆景の隠居領となった宗像郡との繋がりを感じます。なにより宗像神社は海人達の崇拝する海神自身の信仰もさる事ながら水軍を束ねる隆景にとって、海人の結束力を高める為にも宗像の神を勧進する必要があったのでしょうね。
絵図を見ると分かりますが名島城はその名の通り、元々島にあったお城です。今現在堀や空堀を始め名島城絵図と文字のある海の部分は埋め立てられ城浜団地となってます。
今の名島神社は弁財天の位置にあり、鳥居は左端の海側にあります。黒田官兵衛もそうですが知将と言われる武将は船を使った情報伝達/収拾が好きなのか水城的な城が好きですね。中津城、福岡城、黒崎城、讃岐高松城、広島城、三原城、山城である新高山城ですら船手が使える様川沿いにありましたし、情報を制する者が勝つと言うのは今も昔も変わらない様で・・・。
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