別名 |
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松尾城 |
築城年代 |
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建武元年(1334) |
縄張・種別 |
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連郭式/山城 |
築城者 |
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大友貞載(さだとし) |
遺構 |
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井戸跡・石垣・土塁 |
復原 |
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国指定 |
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攻城年月日 |
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2001/5/23 |
【歴 史】
建武元年(1334)足利尊氏の家臣として仕えた大友貞宗の二男大友貞載(さだとし)が築城。
「立花」姓を名乗り、大友氏の筑前支配の拠点として重要な役割を担うこととなる。豊後を”東の大友”、立花氏を”西の大友”と呼んだ。
永禄11年(1568)7代鑑載(あきとし)は毛利と通じ、主家の大友宗麟に反旗を翻した。怒った宗麟は戸次鑑連を大将とする3万の兵を差し向け、3ヶ月経って城を落とした。
元亀元年(1570)宗麟は筑前の守りを堅固にするため、戸次鑑連を立花城主とし守護代を命じた。以後、戸次鑑連は「立花」姓に改め立花道雪と名乗った。
同じく大友氏を主として仕える岩屋城の高橋紹運と共に幾度もの戦に出陣したが道雪は高良山の麓で病死。城督(立花家では家督のことをいう)はすでに道雪のひとり娘・ァ千代(ぎんちよ)
に譲られていたが、立花家は高橋紹運の長男、統虎を養子にもらっている。実父・紹運も養父となる道雪も、統虎の並々ならぬ大将としての資質を見出していた。
道雪からの養子の話が出たときに紹運は猛反対したのだが、必死の説得により了承したので統虎は立花家を継ぐ事となったのだ。その統虎は「宗茂」と名乗り、豊臣秀吉に「九州一の武士(もののふ)」といわしめたほどの青年武将である。
天正14年(1586)島津軍に宗茂の実父がこもる岩屋城が攻撃され、紹運は自害、城は玉砕。さらに九州統一をもくろむ島津勢は、立花城を囲んだ。しかし、すんでのところで秀吉の軍が到着し島津軍は退却、宗茂は退却中の島津軍を打ち砕き、さらに高鳥居城・岩屋城・宝満城を奪回。
この武勇に対し秀吉は宗茂を筑後13万石の柳川城主とし、筑前は小早川氏が入封。
関ヶ原後、立花城は黒田長政によって破却・廃城。
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