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古今の英雄をご紹介


神武天皇<jinmu-tenno>
□愛知県豊橋市今橋 豊橋公園
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□記紀系譜上の天皇

記紀系譜では初代天皇。日向に生まれ高千穂宮にいたが、東方の大和を征服しようと大軍を率いて海路を出発、途中で出あった釣りをしていた国津神の椎根津彦を水先案内とし、宇佐・吉備などに立ち寄り滞在した後難波から河内国白肩の津に入って上陸、大和に入ろうとしたが土豪長髄彦の抵抗にあって失敗、兄の五瀬も負傷して死亡したという。そこで南へ大きく迂回して紀伊の熊野に上陸。熊に化けた土地神の毒によって全軍倒れたが、高倉下が奉じてきたアマテラスオオミカミの下した神剣の威力によって救われ、高天原から遣わされた八咫烏の導きで大和国の宇陀に出ることができた。大和盆地ではエウカシ・エシキらの土豪を平定。最後に長髄彦との決戦に苦戦したとき、金の鵄が一羽飛び来りその輝きで勝利を得た。長髄彦の陣中にあったニギハヤヒが長髄彦を殺して降伏し、大和は平定した。戦には大伴氏の祖である道臣命や久米部の祖である大久米命の活躍があった。辛酉の年に畝傍山の東の橿原宮で即位したと伝えられる。この年を「日本書紀」は紀元前660年とする。
photo:師羅詐欺さん
聖徳太子<syoutokutaishi>
□東京都中野区新井5-3-5 新井薬師
□敏達3−推古30(574-622)
□推古天皇の摂政 用明天皇の皇子

厩戸豊聡耳皇子・上宮太子とう多くの名がある。
用明2(587)蘇我馬子とともに物部守屋を討つ。
推古1('93)女帝推古天皇の即位と同時に皇太子となり、天皇を補佐して摂政となり大臣の蘇我馬子とならんで政務をとる。中央集権化と官僚制の基礎を作ったが、603冠位十二階の制定、'04憲法17条の制定はその主な事業だ。'07、5世紀以来絶えていた中国との国交を開き、小野妹子を遣随使として派遣、その後は数度にわたり使いを送った。馬子とともに歴史書の編纂を計画「天皇記」や「国記」をまとめた。朝鮮渡来文化との関わりも深い。'01新羅討伐は将軍来目皇子の病没のため中止された。
仏教の興隆に力を注ぎ、四天王寺・法隆寺・法起寺・中宮寺とうは太子の発願により建立されたと伝えられる。'22斑鳩宮で没した。
法隆寺金堂の釈迦三尊像や中宮寺の天寿国繍張はその銘に太子の菩提のために造立したと記されており、太子の伝記は神秘化され「太子信仰」の形がつくられた。
photo:あられ
菅原道真<michizane sugawara>
□東京都江東区亀戸3-6-1 亀戸天神社<東太宰府天満宮>
□承和12−延喜3(845-903)
□平安前期の官僚・文人

菅原氏はもとは土師氏という名族で桓武天皇の時代に改姓した。代々学者として名高く、その家塾「菅家廊下(かんげろうか)」は当時の私塾の中でも人気が高く、家系と環境に恵まれた道真は少年時代から秀才ぶりを発揮した。18歳で文章生(もんじょうしょう)、23歳で文章得業生、26歳で最高の国家試験である方略試(ほうりゃくし)に合格。ちなみに、8−10世紀の≒230年間に合格者は僅か65名という。以後は少壮官吏として昇進を続け、29歳で従五位下に叙せられた。貞観19(877)式部小輔と文章博士を兼ねた。
仁和2(886)讃岐守に転出されられる。学問間の対立抗争があったといっわれ、これが最初の挫折となる。国司としての実績も上がらず、讃岐で4年間のつらい生活に耐える。寛平2(890)待望の帰京をはたし、若き宇多天皇の信任を得て再び出世コースに戻った。しかし一方で藤原時平を中心とする反道真勢力が形成された。昌泰2(899)道真は右大臣右大将になり栄光の絶頂を極めた。とのとき時平も左大臣左大将として雁行。
ところが昌泰4(901)突然、道真が天皇廃立を企てたという罪で、大宰権帥(だざいごんのそつ)として左遷されてしまう。どうやら時平一派によるクーデターであった。首謀者時平は9年後39歳で亡くなり、一族にも不幸が続いた。'903道真は任地の大宰府で失意のうちに没した。その後長い年月にわたり朝廷は怨霊に苦しめられることとなる。
photo:あられ
斎藤実盛<sanemori-saito>
□埼玉県大里郡妻沼町大字妻沼1627 聖天山歓喜院
□?−寿永2(?-1183)
□平安後期の武士

平安中期の武将である藤原利仁の子孫。
保元・平治の乱では源義朝に従い活躍。平治の乱に敗れた義朝が東国に落ち延びようとしたとき、比叡山西塔の荒法師に待ち伏せされたが奇計をもって欺き、脱出に成功した。その後、平宗盛に仕え、平氏の荘園であった武蔵国長井荘の別当となった。(長井は現:埼玉県熊谷市)「平家物語」によると実盛はもとは越前国の出身であったが御領の長井に移り住んだという。
治承4(1180)石橋山・富士川の合戦では、平氏の武士として源頼朝と戦い、寿永2('83)平維盛に従い源義仲と戦うが、篠原合戦で手塚光盛に討たれて戦死した。赤地の錦の直垂に70余歳の白髪を黒く染めて戦にのぞんでいたという。
photo:あられ
曾我祐成・時致<sukenari・tokimune soga>
□神奈川県小田原市曽我谷津  
□祐成_承安2−建久4(1172-'93)
/時致_承安4−建久4(1174-'93)
□鎌倉前期の武士/河津祐泰の長男と次男


伊東祐経の汚名を晴らす!(汗)参照

兄祐成は「十郎」、弟時致は「五郎」と称す。
兄弟は幼い頃に父祐泰の敵工藤祐経を討とうと決意し、源頼朝の狩猟のたびにお供に加わり機会を狙っていた。建久4(1193)5月28日、兄弟は富士野神野の館に祐経を襲って殺害。ついで頼朝のもとへ走り、捕捉され頼朝に一部始終を述べた。その後、勇士であると放免されたが、祐経の子犬房丸の願いにより梟首となった。
この兄弟のあだ討ちは「曾我物語」として広く民衆に親しまれた。
photo:荒賀源外さん
親鸞<Shinran>
□伊丹市堀池字タカセキ103 最光寺
□承安3−弘長2(1173-1262)
□鎌倉前期の僧 浄土真宗の開祖

年少で出家し、青年時代は比叡山の堂僧をつとめた。建仁1(1201)法然の門に入り、専修念仏の道に帰依した。元久1('04)法然念仏教団に弾圧があり、法然はこれに対し比叡山にあてて「七箇条起請文」を草したとき、親鸞も連署に加わった。承元1('07)法然は同輩数名とともに罰せられ、親鸞もこれに連座し、藤井善信の俗名を与えられて越後の国府(現:新潟県直江津)に流された。これより非僧非俗の形をとり、愚禿(gutoku)と称し配流生活を送った。配所では三善為教の娘といわれる恵信尼と結婚し、子女をもうけ家庭生活を営んだ。
その後、赦免されるが帰洛せず越後に止まり、建保2('14)42歳のとき、妻・恵信尼とともに上野国邑楽郡佐貫、武蔵国を経て常陸国稲田あたりに移住しここに約20年間止まった。耕作農民や下層武士を主とする民衆に布教し、主著「教行信証(kyogyosinsyo)」の著作にとりかかった。帰洛の年代は明らかでないが、寛喜3('29)以降に三河その他諸地に立ち寄り京都に帰った。東国の信徒からの志を受けて生活を弟・尋有の坊で送った。建長7('55)ころ、実子・善鸞が異議を唱え東国の正信の念仏者をまどわすことに端を発し、鎌倉で訴訟事件が起こったが、これにも全力をあげて支援して正信の念仏者を守った。親鸞は師法然の思想をさらに深め、独自の信仰境地を作りあげ、絶対他力・悪人正機(syoki)説をとなえ、当時の仏教界に大きな影響を与えた。
photo:SPOOKさん
小弐資時<suketoki shoni>
□長崎県壱岐市芦部町瀬戸浦 船匿城
□弘長2?−弘安4(1262?-'81)
□鎌倉時代の青年武将 壱岐の守護代

弘安4年(1218)元軍は大宰府占領の足がかりとして、良港を備えた壱岐の瀬戸浦に攻めかけた。この瀬戸は小弐氏の領地であり、船匿城もある。それらを守るため、わずか19才の小弐資時は一軍の将となり勇敢に戦ったがついに敵の刃に倒れた。
壱岐神社に祀られている。
元寇参照
photo:ばつまるさん
雪舟等楊<touyou sessyuu>
□山口県山口市 瑠璃光寺
□応永27−永正3(1420-1506)
□室町時代後期の画家

少年時代に生国の備中国赤浜より上洛して画壇の中心であった相国寺に入り、春林に侍す。僧位は来客の接待係の知客にとどまったが、その間、周文に画の指導を受けたようだ。のち大内氏の周防国山口に移り雲谷軒の画室を営み、寛正5(1464)ごろにはすでに有名であった。応仁1('67)隋明使桂庵玄樹に随行し、四明(寧波)の天道山第一座となり、北京に至り浙派の画院画家李在らに学び、また元の高彦敬の流派にも接した。
応仁の乱中に帰国し九州にとどまり、文明8('76)ごろに大分に画室「天開図画楼」を開いた。以後、乱をさけて山口より美濃、出羽、能登などを周遊、富士山や立石寺など新景図画きながら精進を続けた。'84ごろには山口に帰り雲谷軒落ち着く。'86夏圭に倣う「山水長巻」・'96達磨と神光の息苦しい対面を冷徹に表現した「慧可断臂図」・1501-'06には真景の「天橋立図」・50代ころの作品「秋冬山水図」とうが代表作である。
photo:ばつまるさん
柴田勝家<katsuie shibata>
□福井県福井市中央1 北庄城跡(柴田神社)
□大永2−天正11(1522-'83)
□安土・桃山時代の武将 権六のちに修理亮

清和源氏の流れをくむ斯波氏の一族。
はじめは織田信長の弟信行に仕える。弘治2(1556)織田家の家臣林佐渡守信勝とともに信長を倒して信行を擁立しようと謀るが失敗。剃髪して許され信長の家臣となる。戦に明け暮れては戦功を重ね、いつしか織田家の宿将として重んじられ勢威を誇った。天正3('75)信長が越前を平定したのち北ノ庄に移り北陸経営にあたる。'80越中、'82能登を平定、越後の上杉景勝と対峙した。
同年本能寺の変が起こり、明智光秀討伐の功を羽柴秀吉に先んじられ、織田家の後嗣に信長の3男信孝を立てようとして、信長の孫三法師を擁する秀吉と対立。翌'83賤ヶ岳で秀吉軍と戦い敗北。越前北ノ庄に戻り小谷の方(信長の妹市)とともに自害した。
photo:ばつまるさん
佐々木巌流<ganryu sasaki>
□山口県岩国市
□?−慶長17(?-1612)
□安土桃山・江戸前期の剣客 小次郎

諸国を武者修行し「燕返し」の剣法をあみ出す。豊臣秀吉の臣・増田長盛は巌流を家臣にしようと秀吉に願い出たが許されなかった。
播磨で新免無二斎と争い、無二斎を討つ。その子の宮本(新免)武蔵と慶長17年(1612)4月13日巌流島(舟島)で闘い敗死したと伝えられる。
諸説あり。
photo:荒賀源外さん
島津義弘<yoshihiro shimazu>
□鹿児島県日置郡伊集院町 伊集院駅前 鹿児島城
□天文4−元和5(1535-1619)
□安土・桃山時代の大名 号-維新

島津貴久の次男として薩摩伊作城に生まれる。20歳で父・兄の義久とともに大隈の岩剣城を攻撃したのが初陣、戦勝し城番となる。父の死後、兄が家督を継ぐと兄弟は日向の伊東氏を破り(木崎原の戦)、耳川の合戦で日向を奪回しようとする伊東義祐と助力している大友宗麟を撃退。薩摩・大隈・日向を統一した。次いで九州制覇をめさし、肥後の相良義陽・肥前の龍造寺隆信を攻め落とし勢力を拡大。天正14(1586)大友宗麟に島津征伐を懇願された豊臣秀吉は九州の領土分割方針を打ち出すが、島津氏は聞き入れず、結果秀吉は大軍を小倉に上陸させたので島津氏から大勢の豪族が離反し、とうとう秀吉の軍門に下った。
文禄・慶長の役で朝鮮出兵に加わる。明側の歴史書に「石曼子(島津)の兵は強悍にして頚敵」と評されるほど恐れられた。慶長3(’98)秀吉の死後、朝鮮撤兵の際には明軍を打ち破り全撤退軍を大いに助け、その恩賞で60万石を領する。帰国後、領内で伊集院忠真が叛乱を起こすが、これを鎮め領内を固めた。関ヶ原合戦では西軍として加わったが兵を動かさず。退却の際、徳川家康の本陣を突破して退却、その勇断を讃えられた。帰郷後、桜島で蟄居。義久が徳川氏と交渉にあたり、1602島津氏の本領は安堵されたので、藩政に尽力した。
photo:悪愚さん
真田幸村<yukimura sanada>
□長野県上田市上田駅前 上田城
□永禄12−元和1(1569-1615)
□江戸初期の武将

真田昌幸の二男。
真田氏ははじめ上杉氏に属したが天正18(1590)小田原の役のときにはすでに豊臣秀吉の配下に加わっていた。
文禄1('92)文禄の役では名護屋に出陣。'94には従五位下左衛門佐となる。
慶長5年(1600)関ケ原の戦では豊臣家の奉行大谷吉継の娘を妻としてる幸村は父とともに西軍に、徳川家の重臣本多忠勝の娘を妻としている兄信幸は東軍にと分かれ、関ケ原へ向かう徳川の本隊秀忠軍を中仙道で阻止した。戦後、父とともに高野山麓の九度山に追放とされたが、'14から始まった大坂の陣には豊臣秀頼に加担して大坂城に入る。
冬の陣では外堀の天王寺口に出城<真田丸>を築き力戦し、元和1('15)夏の陣では後藤基次らと河内に向かい伊達勢と戦う。同年5月7日天王寺付近で松平忠直の軍勢と激戦の末、戦死した。
家康の本陣を突き馬印を倒した奮戦ぶりは、後世「真田十勇士」として語りつがれることとなる。
photo:霜田・Yさん
鈴木重成<shigenari suzuki>
□熊本県天草郡苓北町富岡 富岡城
□天正15−承応2(1587-1653)
□江戸初期の武将

三河の松平氏家の家臣鈴木重次の三男。徳川家康に仕え、大坂の陣に従軍。元和6(1620)家督を継ぎ700石を知行。寛永14('37)島原の乱では松平信綱に従い砲術隊の長として活躍、その軍功を認められる。'41天草の代官に着任、踏絵を執行したり、行政区画を整理し乱後の統治政策に力を尽くす。その一環として、荒廃した天草の民のために幕府に年貢の減免を願い出たが受け入れられず、将軍に直訴した。当時は御法度の直訴であり、承応2('53)江戸の自邸で自刃。
もともと三河武士である代官が、天草のために命をかけてくれたことに感謝して、郡内のいたるところに鈴木神社が建てられ、名代官として末永く民衆に慕われた。
photo:ばつまるさん
調所広郷<hirosato zusyo>
□鹿児島県鹿児島市 天保山公園
□安永5−嘉永1(1776-1848)
□江戸後期の藩政家

下級士族、川崎主右衛門の次男で、城下士である調所清悦の養子となる。通称は「笑左衛門」。
寛政10年(1798)前薩摩藩主島津重豪に茶坊主として仕え、奥茶道のち茶道頭、つづいて御納戸となり、笑左衛門を名乗って還俗。文政5年(1822)町奉行となり多くの有力町人と交わりをもつ。'25以降、側用人・側役を兼任。'27藩財政は500万両の赤字に達し、同年、財政改革の担当者を命じられ、大番頭・大目付格、天保4年('33)家老となった。その間、改革の全権を委任され、大阪商人の協力をえて出雲屋(浜村)孫兵衛ら5名を新組銀主とし、大阪・京都・江戸の藩邸の財政を監督、'35には500万両の借金を、新旧をとわず親戚から商人まで一律に1千両につき4両ずつ250年賦返金ときめ、旧来の証書ををとりあげた。また、奄美大島など三島の砂糖を専売にして、それまでの3,4倍の利益を上げ、琉球を通じて官許貿易・密貿易を行なって収益を増し、'40ごろには財政も安定に向かった。のち密貿易を幕府に探知され、その責任をとって自害した。
photo:ばつまるさん
フィリップ フランツ フォン シーボルト
<Philipp Franz von Siebold>

□長崎県長崎市鳴滝町 シーボルト宅跡(上)
/同 シーボルト記念館入口(中)
/同 (下)
□寛政8−慶応2(1796-1866)
□江戸時代後期に来日したドイツ人 医師 博物学者

南ドイツのビュルツブルク出身。大学で医学・地理学・民俗学を学び、卒業後は東洋研究を志す。文政6(1823)オランダ商館の医員として長崎の出島に来日。'24長崎港外に鳴滝塾を開き、診療と教育に当たった。全国から入門者が続出し、高野長英をはじめ数十名にも及び、医学・日本史・地理・風俗といった研究を指導。'26には商館長に従い江戸に参府、蘭学者の大槻玄沢や探検家の最上徳内と会う。'28帰国の際に国禁の地図を海外へ持ち出そうとして発覚、国外追放となった。<シーボルト事件として有名>
安政5('58)日蘭の通商条約により、国外追放は取り消され、'59オランダ商事会社顧問として長崎へ来る。文久1('61)江戸に出て幕府に建言したが、オランダ総領事の妨害にあい'62帰国。'66ミュンヘンにて死去。
photo:ばつまるさん
島津斉彬<nariakira shimazu>
□鹿児島県鹿児島市照国町 照国神社 鹿児島城
□文化6−安政5(1809-58)
□江戸後期の大名

薩摩藩主。嘉永4(1851)43歳で襲封。その前に家臣の対立によるお家騒動(お由良騒動)があったが、西郷隆盛大久保利通ら改革派が斉彬擁立に尽力し、殖産興業政策を実施した。花園精錬所を設けいろいろな化学製品を作り、軍備のための基礎的技術を実験させた。また反射炉のほか藩営マニュファクチュアや機械制工業を他藩にさきがけて経営。大砲・火薬・ガラス・陶磁器・アルコールなどを作り、ほかに電信・ガス灯・写真機などの実験を行い、それらを一括してのちに集成館を設立。また昇平丸など5隻の軍艦を建造、さらに幕府の注文をうけ2隻を建造している。これらはペリーの来航による危機意識のあらわれであり、自領の防衛をはかり、幕府に海防の急を建議した結果であった。
安政5('58)日米修好通商条約勅許問題さらに将軍継嗣問題がおこると、中央政府に進出した斉彬は、徳川斉昭・松平慶永らとともに一橋慶喜擁立のために運動。西郷隆盛らを水戸藩との連絡にあたらせ、越前の橋本左内とも通じた。しかし井伊直弼の大老就任により徳川家茂が第14代将軍に決定、運動は挫折した。その直後、病を得て没する。
photo:ばつまるさん
佐竹義堯<yoshitaka satake>
□秋田県秋田市千秋公園 久保田城
□文政8−明治17(1825-84)
□幕末・維新期の勤皇派大名

相馬中村(福島県)藩主相馬益胤の3男。久保田(秋田県)藩支封岩崎藩主佐竹義純の養子となる。のち久保田藩主佐竹義睦の嗣子。
安政4(1857)家督を継ぐと、幕府への献金、蝦夷地防備、羽後地方沿岸の防備などによる財政窮乏に対処するため、6割の知行借り上げを行い、倹約をすすめた。その結果、財政の整備など効果を揚げ、藩論統一の中心となり幕末維新の動きに対応しえた。のちに上洛して、皇居を守護し、孝明天皇の賀茂神社行幸に従った。慶応4('68)鳥羽伏見の戦いが起こると勅を受け、新政府軍に反抗する奥羽諸藩の説得と連絡係にあたり、奥羽戦争では庄内藩征討を命じられた。そのため奥羽列藩同盟によって藩境をかこまれ、藩論は対立したが、義堯は勤皇論に態度をきめ、新政府軍の助けを得て奥羽平定に貢献した。
photo:ばつまるさん
西郷隆盛<takamori saigou>
□鹿児島県鹿児島市城山町(上)
/東京都台東区上野公園 上野の山(下)
□文政10−明治10(1827-'77)
□幕末・維新期の政治家

藩校造士館に学び、弘化1(1844)郡方書役助、のち書役となり、10年間農政を指導し、改革の必要性を痛感する。安政1('54)江戸で藩主島津斉彬の知遇をうけ、御庭方役として国事に奔走、'58安政の大獄と斉彬病没に絶望し僧月照と投身自殺をはかったが西郷のみ蘇生、'59奄美大島に流された。文久2('62)許されて上洛したが、島津久光の怒りにふれ、沖永良部島へ流罪となる。元治1('64)許されて上洛、薩摩藩軍見武役に就任し、大久保利通らと結んで禁門の変・第1次長州戦争には幕府側の指導者として活躍したが、その後藩論を公武合体から尊王討幕へ転換させ、慶応2('66)薩摩の代表として長州の木戸孝允との間に、薩長連合を結ぶとともに、藩政改革・軍備拡充・英国接近など討幕の準備をすすめた。
明治1('68)王政復古のクーデターに成功、戊辰戦争には東征大総督の下に参謀として全軍を指揮した。革命的民衆への警戒と英国の圧力により、将軍慶喜の助命と徳川家存続を条件に妥協、江戸城無血開城に成功したが、その後突然帰藩、'69参政となって藩政改革を推進、軍備拡充を中心に下級藩士中心の軍事独裁体制を築きあげた。'70政府の召請により上京、'71参議となり廃藩置県に協力したが、'73征韓論を主張し大久保らと対立して下野・帰郷した。「敬天愛人」を信条とし、人望あつく、個人的には野心をもたなかったが、不平士族に弄され、'77西南戦争を起こして敗れ、自刃した。そのため逆賊とされたが、'89罪を許され、正三位を追贈された。
photo:ばつまるさん(上)
photo:SPOOKさん(下)
坂本竜馬<ryouma sakamoto>
□長崎県長崎市伊良林3丁目 風頭公園(上)
/高知県高知市浦戸 桂浜公園(下)
□天保6−慶応3(1835-67)
□幕末期の志士

土佐藩高知城下郷士坂本八平の二男として生まれる。嘉永6(1853)江戸に出て千葉周作の弟・定吉に剣道を学ぶ。翌年一時帰国するが再び江戸に出て水戸藩士らと交わり、文久1('61)武市瑞山の土佐勤皇党に参加。翌年3月脱藩。幕臣勝海舟の門下となる。尊攘運動最盛期に海舟の幕府開明路線の近くにいて神戸海軍操練所設立に力を尽くす。'63操練所閉鎖に伴い薩摩におもむき西郷隆盛や木戸孝允と会い、薩長の和解と連合に務めた。この頃薩摩藩の援助を受けて社中をつくり海運業に従事。慶応2('66)1月薩長同盟の盟約に立会う。直後に船宿寺田屋で幕吏に襲われたが愛人お龍の機転で救われた。同年の第二次長州戦争では長州藩軍の指揮や社中の物産を動かした。翌年土佐藩より脱藩の罪を許され、社中も海援隊として藩公認の下で活動。土佐藩主山内豊信(容堂)を動かし大政奉還を実現。新政の構想「船中八策」の実現に向けて尽力中、11月15日京都の近江屋で何者かに暗殺された。
photo:ばつまるさん(上)
photo:たかしPart3さん(下)
孫文<Sun Wen>
□中華人民共和国江蘇省南京市 中山稜
□1866−1925
□中国の政治家・革命家

広東香山県の人。はじめ医者となり、かたわら興中会を組織、さらに中国革命同盟会を結成、革命運動に尽力。しばしば来日。1911年の辛亥革命に際し臨時大統領に選べれたが、直ちに袁世凱に譲り、後、袁一派および段祺瑞の軍閥派に反対、再三広東を地盤に臨時政府を組織、三民主義の実現に努力して国民党の基礎をかためた。北京で病死。
国父と称せられる。
photo:SPOOKさん


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