要害石築地 (元寇防塁跡)yougai-ishitsuiji(genko_bouruiato) 福岡県福岡市西区生の松原



取材日
2005/4/13


【規   模】
現在の福岡市、東は香椎(kashii)から西は今津の間≒20km。当時は波打ち際に築かれていたが、いまは海岸線から数メートルも内陸部になってしまった。
調査によると、断面の高さ2m、基底部の幅3m、海岸側を切り立たせ、陸側は緩やかなスロープをつけて途中まで土盛りをしてある構造。

【歴   史】
鎌倉時代後期、文永11年(1274)・弘安4年(1281)の2度、中国大陸から元の大軍が北九州へ襲来。文永・弘安の役「元寇」という。鎌倉幕府は防衛力を強化すべく、筑前(福岡県)博多湾岸一帯に石垣「要害石築地」を築いた。
1260年、モンゴル帝国皇帝フビライは、中国北京に都城を置くと国号を「元」とした。フビライは諸方面へ勢力を拡張し、朝鮮半島の高麗を征服すると、文永5年以来幾度も日本に対し元に服属するよう迫った。
幕府はこれを黙殺したので文永11年日本征服を決行。遠征軍の元軍2万、高麗軍5千が10月初旬から中旬にかけて対馬(長崎県)、壱岐(同)を襲い、19日には九州に所領を持つ地頭や御家人が待受ける博多湾へ姿を現し、翌朝に上陸を開始した。戦いは元軍の集団戦法や石火矢とうの見られぬ武器の前に鎌倉武士団は圧倒され、水城まで後退したが、その夜なぜか元軍は沖の船に撤退したので、その後はなにごともなかった。
幕府は再度の元寇を想定して、防衛に力を入れ、文禄の役の経験から博多湾に延々と石垣をめぐらすことにしたのだ。
弘安4年、元が再び襲来した。旧南宋軍を主力とする江南軍10万と高麗の東路軍4万、文禄の役のときよりも本格的な侵攻で、一部は土着する予定だったらしい。今回、日本軍は待ち構える余裕もあり、万全な防衛態勢を敷いていた。元軍は案の定、石築地に遮られ思うように上陸できすにいるうち、大きな暴風雨に襲われ壊滅した。

photo:ばつまるさん


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