水城 mizu-ki |
福岡県太宰府市水城・他 |
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水城の遠景・中央の細長い緑地が「大堤」/堤土塁跡
/城址の碑(左列) 土塁/城址とJR水城駅(右列)
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水城大堤
博多湾沿岸から筑紫野に広がった平野がもっとも狭まった地にあり、その狭隘(きょうあい)部を塞き切るかたちで造られていて、付近数カ所の小丘陵の間も「小水城」により塞がれている。大堤の規模は、長さ1.2km・高さ13m・基底部幅80mに及び東西に2つの門が設けられていた。
室町時代の連歌師・宗祇が「筑紫野道記」に”大きなる堤ある。いわば横たはれる山のごとし”と記している。
昭和50年、長年の発掘調査により、博多湾側にそれまで確認できずにいた水堀があったことが解明された。規模は幅60m・深さ4m。
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別名 |
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築城年代 |
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天智天皇3年(664) |
縄張・種別 |
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朝鮮式/山城 |
築城者 |
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大和朝廷 |
遺構 |
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土塁 etc |
復原 |
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国指定 |
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攻城年月日 |
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2004/8/3 |
【歴 史】
西暦664年、先年滅亡した百済王朝を再建するべく出兵した大和朝廷は、再建百済と連合して唐・新羅と戦った「白村江の戦」で大敗を喫した。
百済滅亡により大和朝廷は唐・新羅から受けるであろう軍事的圧力を考慮にいれなければならなくなり、出兵を指導した中大兄皇子(後の天智天皇)を中心とする政府は、両国の襲来を想定して急遽国内の防衛準備にとりかかった。
対馬(長崎県)・壱岐(同)・筑紫(北九州)とうに防人を配置し、瀬戸内海沿岸から大和(奈良県)に至る地域に多くの朝鮮式山城を築いた。水城や大野城もその一環として敗戦翌年に築かれたものだ。
その後外敵の侵攻はなく水城が実戦で使われることはなかったが、1274年鎌倉時代の文永の役(元冠)では、博多湾岸の緒戦で元軍に追われた日本軍が陣を立て直すため退却場とした。
<要害石築地>参照
【攻城記】
水城は岩城跡からの遠望で土塁の大半が消失している事が分かります。
太宰府防衛の為筑紫の平野部を遮る形で、大城山の山裾から西の山々へ東から西へ真っ直ぐ伸びる土塁とそれに付随する水濠が水城本来の姿なのですが、今は国道や鉄路に分断され、宅地や商業地と変わり濠は埋め立てられ、かろうじて大城山側の一部に緑の帯となった小山として残るだけです。
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photo:ばつまるさん |
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