別名 |
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鶴丸城 |
築城年代 |
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慶長7年(1602) |
縄張・種別 |
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---/平山城 |
築城者 |
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島津家久 |
遺構 |
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石垣・堀 |
復原 |
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国指定 |
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史跡 (城山) |
攻城年月日 |
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2001/1/28 |
【歴 史】
島津氏のはじまりは、文治2年(1186)源頼朝が惟宗忠久を九州島津の荘の下司職(げししき)につけたことにより、”島津”を名乗ったことによる。
慶長5年(1600)関ケ原の合戦で西軍に味方して敗れた義弘は、敵中突破型退却で帰国する。徳川家康の戦後処理では井伊直茂とうの力添えと懸命の恭順政策が功を奏し、取り潰されずにすんだ。名家と九州の辺境だからとの理由もあった。
関ヶ原後、薩摩・大隅・日向の3州を旧領のまま安堵され、77万石の大藩となる。加賀100万石に次ぐ天下第2の大藩だ。
慶長7年(1602)城とゆうには不思議なほど質素な居城をつくる。幕府への遠慮や藩の財政上の問題から大きな城郭を構えることを控えて”館”づくりにし、ひとをもって城となし町づくりや藩の組織にも独特な形態を編み出した。いっぽう、背後の城山を要塞化して防備を整えた。
慶長11年(1606)家久が館に入り、明治に至るまでの11代(約260年間)、島津氏の居城となる。
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