homereports on history 雑学・事件の検証etc...レポート
It dispels the disgrace of the suketsune Itoh/伊東祐経の汚名を晴らす!(汗)

はじめに
日本3大敵討ちというと、伊賀越えの敵討ち、忠臣蔵、そして曾我兄弟の敵討ちである。
どれも、歌舞伎や浄瑠璃で江戸時代庶民に大変楽しまれた題材だ。
このうち曾我兄弟の敵討ちは鎌倉幕府正立直後の古い話であり、知らない人も多いと思うし、単に曾我兄弟が本懐を果たして死んでいく話とだけ知っていて、時代背景やそのバックグラウンドも知らない人が多いと思いこのレポートを記述することとした。
※写真は伊豆・河津駅前の「曾我兄弟の銅像」

伊東氏って?
曾我兄弟の敵討ちは伊東氏の同族同士の争いが元になっている。この伊東氏って何者なのだろう?
伊東氏はこの敵討ちの時代はまだ工藤氏と名乗ったり、河津氏と名乗ったり狩野氏と名乗ったり一定でない。一般的には工藤氏と呼ぶのが慣例になっているらしい。
その遠祖は藤原南家で、現在の栃木県足利近辺に土着した藤原氏が源流と言われている。その藤原為兼は戦上手として知られており、関東地方で初めて城郭を構築した人とも知られている。有名な戦としては平将門の乱で、この功績から朝廷そして、平家との結びつきを強くしていったようだ。
為兼は、朝廷から大工助の官職を頂き、その時から藤原の大工ということから、”工藤”と名乗るようになったらしい。
時は下ってこの工藤氏は次第に南下し、伊豆の伊東荘に土着しそのころから時として伊東と名乗るようになる。時は源平合戦の頃で、伊東は古くからの付き合いである平家と新興勢力である源氏に分かれて戦うことになったらしい。
事件の発端
さて源平合戦の少し前、伊東氏の頭領に祐隆という人物がいた。この人は嫡子に恵まれず、死に際して早世した嫡男祐家の息子祐親と、後妻の息子(嫡子とも、連れ子とも言われている)祐次(継とも)に家督を譲る。
ところが、この祐次も早世してしまい、幼かった祐経の領地を管理すると言う名目で、祐親が領地を横領してしまう事件が起こる。
成人した祐経は再三再四祐親に所領を返還するように要求したようだが、無視されつづける。そして、怒った祐経が夜道で祐親一行を襲い暗殺を企てるが、誤って息子の祐泰を殺してしまう。この祐泰の子供が祐成、時到の曾我兄弟である。
このような背景から考えると、曾我兄弟の敵討ちと言うのはまるで見当の外れた逆恨み。当時の武士にとって土地と言うのは財産のすべてだから、それを押領した兄弟の祖父が悪いのであって、土地争いの戦闘で殺されたからといって敵討ちと言うのは相当にピントがボケている。(笑い)
実力で土地を取り返した祐経にとってはいい迷惑であろう。
伊東(工藤)祐経という人
伊東祐経は成人するとすぐに京都に上り、長らく宮仕えをしていたらしい。鎌倉幕府を支えた御家人衆の中で、武人としても文人としても一流だったようである。そのため頼朝の信任も厚く、何かと頼られたらしい。
こんな逸話が残っている。
義経討伐の際捕らえられた静御前の舞を見たいと北条政子が頼朝に頼む。ついでに書いておくと、政子はどう贔屓目に見ても、田舎のおねぇちゃん。一方静御前は都会育ちのシティーギャル(死語だな。汗)だった想像される。(笑い)
で、静御前が八幡宮の舞台(これは今も八幡宮の大銀杏の前の広場にある建物)で例の静かの舞を舞ったとき、伴奏の鼓を打ったのが祐経といわれている。
伊東祐親という人
この人は頼朝が清盛により伊豆に流された際、北条時政と同様に頼朝の監視役を任じられていたらしい。
そのこともあったのだろうが、頼朝が若気の誤り(笑い)で、祐親の娘と密通しこれを妊娠させてしまうと、娘を簀巻きにして井戸に投げ込んで殺してしまったという。
祐経の所領を押領したこともそうだが、かなり短気というか人間的に相当問題のあった人物と思われるが、富士川の合戦を前に捉えられ2年後に自殺をしたらしい。
したがって祐親の孫である曾我兄弟に対して頼朝は決してよい印象をもっていなかったと考えられるのだ。
兄弟も祐経の意見を聞き入れた頼朝に殺されそうになるが、畠山重忠の説得でなんとか殺されずに済んだと言う。
いよいよ仇討ち
父親そして祖父を相次いで亡くした曾我兄弟だが、母親が同じ工藤氏の曾我祐信と再婚する。工藤兄弟とか伊東兄弟と呼ばず、曾我兄弟と呼ぶのはこのためだ。
兄の祐成は成人しており、しばらくして曾我の家を出奔。相当にヤンキーな兄ちゃんだったらしい。(笑い)虎御前という風俗なお姉さんにお熱を上げたりしているし、彼女を巡っての決闘騒ぎも起こしているようだ(爆)。
弟の時到は寺に稚児として預けられるが、成人して出家させられそうになると、兄と計って脱走。そして兄弟で祐経を敵と狙い始める。
しかし、祐経は頼朝の寵臣であり兄弟二人で何とかなるような隙はない。そんな時二人に大きなチャンスが訪れる。富士の裾野で行われた巻き狩りである。
当時の狩と言うのは武士の軍事演習みたいなもので、関東一円の侍が集まって盛大に行われたらしい。この狩場で兄弟二人は祐経を探してさすらうがなかなか発見できない。もはや運にも見放されたか、と思った頃、畠山重忠があらわれ二人に祐経の寝所を教える。兄弟二人は喜び勇んで、深夜祐経の寝所を襲い本懐を遂げるが、逃亡の際、兄祐成は祐経の郎党に切り殺され、弟時到は捕らえられて頼朝の前に引き立てられる。
このときもまた畠山重忠が助命を嘆願するが、流石に今度は許されず(祐経の遺児、祐時に請われて切ったとも言われる)、祐時の前で斬首された。
以上が曾我兄弟の敵討ちのあらましである。
登場人物のその後
まず畠山重忠。この人は相当な謀略家だったのではないだろうか?祐経の寝所を教えたのも、鎌倉幕府内での権力闘争に兄弟を上手く利用しようとしたものと思われる。しかし、頼朝が落馬の怪我が元で死んだ後は、北条氏との権力争いに敗れて滅亡と言う憂き目にあう。
祐経の遺児祐時だが、彼もまた頼朝の寵愛を受けたらしい。成人すると、九州は日向の飫肥の地頭職を拝領し、一族を引き連れて日向へ下向してしまう。本家は関東に残って、本領には代官を置くのが普通だったこのころ、一族を引き連れて下向してしまったのは、幕府内の権力争いに飽き飽きしていたからかもしれない。この伊東氏は、室町幕府時代は守護大名として、そして戦国時代には戦国大名として隣国島津と何度となく戦い、一時は九州南部の一大勢力をなしたこともある。しかし、身内でゴタゴタをおこしている隙に島津に攻め込まれ領地を失い大友を頼る(大友には遠戚に当たる河津氏がいた。これを頼ったものと思われる)。しかし、その大友もまた島津に攻め滅ぼされると(島津が大友攻めた口実が、伊東氏を匿ったことだった)、いち早く九州を脱出して秀吉を頼り、秀吉の九州征伐では先鋒として道案内を勤めた。この功績で飫肥伊東氏は再び領地を取り戻し、関ケ原の戦いでも大過なくすごして明治維新を迎えた。
祐親の一族だが、平家方についたのが災いしてほとんどが絶えている。しかし、祐親の末っ子(曾我兄弟の叔父さん)の祐清は、一族の中でただ一人頼朝に見方をしたことが幸いし鎌倉御家人として存続した。
その後どのような経過をたどったのか不明だが、その子孫長久は信長の赤袰衆の一人(したがって、前田利家と同格)として、その後は本能寺の変の少し前に秀吉の与力となり、長久の子長次は秀吉の七手組の大将として活躍したらしい。関ケ原の戦いでは西軍に属するが、なぜか家康に許されて備中岡田などに領地をもらい、明治維新まで大過なく(???)存続した。
関ケ原で西軍について幕末まで存続したのは他に青木藩と薩摩藩くらいのもので非常に珍しい。
さて、大過のところに???を打ったのは、高々 1万石の小大名。領地経営は火の車だったらしく、何度か領地で農民一揆も起こっている。横溝正史の”悪魔の手毬歌”に出てくる、 ”陣屋の殿様”とは、この長次の子孫の事だ。
長次は相当な好人物だったらしく、岡田藩への入城には馬も駄馬もなく、岡田の村人が藩主長次を背に負ぶって入城したいう逸話が真備に残っているようだ。
上述以外に歴史に登場する伊東氏としては、伊勢新九郎の小田原入城後、小田原城の家老を務めた伊東氏がある。(この文章の執筆者は、どうやらこの伊東氏の流れらしい。汗)この伊東氏は、日向に下向せず伊豆伊東に土着していた伊東氏で、織田信長に使えた長久の一族だろう。
また祐清の子、祐信は河津氏を名乗ってる。宗像周辺の河津姓の祖と思われる。

report:荒賀源外さん/photo:あられ
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