homereports on history 雑学・事件の検証etc...レポート
Syougi-tai soldiers in the Ueno War/彰義隊の戦で焼失した寛永寺跡/上野の山

東叡山寛永寺/竹の台(大噴水)/清水観音堂/彰義隊の墓(左列)
東叡山寛永寺の本堂/東照宮/舞台造りの清水観音堂/旧因州池田屋敷表門(右列)

住所:東京都台東区上野公園・池之端3丁目

上野恩賜公園といえば、明治6年に太政官布達により日本で最初に公園として指定されたところだ。
(他に、芝公園・浅草・深川・飛鳥山)
現在の面積533,981u、江戸時代には東叡山寛永寺があった場所で、徳川幕府2代将軍・秀忠が元和8年(1622)に上野の地を天台宗の天海僧正に寄進したのがはじまり。
現・大噴水(噴水広場)の辺りは「竹の台」と呼ばれ、根本中堂を中心とした数多くの堂塔伽藍が点在していたという。まさに巨刹であり徳川家の威容を誇っていた。
慶応4年(1868)大政奉還をし、上野寛永寺に蟄居した15代・徳川慶喜の一ツ橋藩主時代からの直臣・小川興郷が中心となり、慶喜助命嘆願のために同志をつのった。
徳川幕府の支持者や新政府に不満をもつ人々が集まり、やがて「彰義隊」が結成され浅草本願寺を屯所とした。
彰義隊は徳川家から正式に慶喜警護の任を与えられ、徳川宗家の菩提寺である寛永寺に本拠を移し、上野の山を拠点に新政府軍と対峙した。
先の江戸城開城により「維新政府軍」となったものの、万全の勢力とまでいかない新政府軍は、江戸の治安維持に旧幕府体制を頼るしかなくこころもとない情勢だ。それに対し彰義隊は4000名に膨れ上がり勢いを増すと、新政府軍相手にテロを仕掛けたりしていた。
新政府軍の村田蔵六(後の大村益次郎)が主導権を握ると彰義隊征伐の命が下され、明治元年5月15日雨上がりの泥濘の中、午前7時ころに新政府軍の攻撃が開始され、薩摩軍が正面黒門口を猛攻、そして長州軍・他が本郷の団子坂から側面攻撃。彰義隊1000と新政府軍2000の激しい攻防が続く。
ちょい待ち!
差引き彰義隊3000の兵はいづこへ???(さては逃げたか
彰義隊もよく応戦し、正午ころまでは五分五分の勢いだっが、肥前軍が本郷台からアームストロング砲を撃ち込むと次第に彰義隊は押され、とうとう新政府軍は上野の山に突入、寛永寺の伽藍に火をかけ、夕方には彰義隊も壊滅した。
遺骨の一部が合葬され荒川区南千住の円通寺に、また同寺には「黒門」が残る。(無数の弾痕が...
上野にある墓の場所は彰義隊の士を火葬をしたところという。

東叡山寛永寺本堂
上野戦争で伽藍焼失後、寺は同区上野桜木1-14-11(現住所)に移転。
本堂は明治12年(1879)埼玉県川越市の喜多院にあった本地堂を移したもので、寛永15年(1638)建造といわれる。
東照宮
元和2年(1616)徳川家康の危篤の知らせに、駿府城にいた藤堂高虎と天海僧正が病床を見舞うと、末永く魂鎮する地を造って欲しいといわれ、高虎の屋敷地であったこの場所に本宮を造成、その後3代・家光が社殿を荘厳な造りにし江戸の象徴とした。祭神は徳川家康・吉宗・慶喜。
清水観音堂
京都の清水寺に安置されていた千手観音を天海僧正に献じ、寛永8年(1631)に清水寺にならい創建された。斜面を利用した舞台造りになっており、下ったところに「黒門跡」の碑が建っている。
旧因州池田屋敷表門
因州(鳥取県の一部)池田家江戸屋敷の表門で、丸の内大名小路(現・丸の内3丁目)に建てられていた。
明治25年に芝高輪台町の常宮御殿の表門として移され、のちに東宮御所へ...さらに高松宮家に引き継がれた。昭和29年にこの場所へ移築。形式・手法からみて江戸末期の造りで、門の左右には向唐破風造りの番所を備えている。大名屋敷の表門としてはもっとも格調高い。

2004/4/4
Back
Home