別名 |
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築城年代 |
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慶長7年(1602) |
縄張・種別 |
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---/山城 |
築城者 |
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寺沢広高 |
遺構 |
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曲輪跡・石垣 etc |
復原 |
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国指定 |
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攻城年月日 |
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2004/4/11 |
【歴 史】
慶長7年(1602)、唐津城・城主であった寺沢広高が唐津藩の支城として築城。地名も「袋浦」から「富岡」に改めた。
寛永14年(1637)島原の乱で8500とも12000ともいわれる一揆軍に攻撃されたが、これを撃退したほどの堅固な城である。
寛永15年(1638)原城が一揆によって落城!その責任を取らされ寺沢氏は改易。
その後、天草・富岡4万石で山崎家治(山崎氏は最初、六角氏の家臣であったが、代々時の権力者に仕えた)が入封、城郭の修理・再建が行われた。
山崎氏が2年後、讃岐丸亀城へ移り一時天領となったが、寛文4年(1664)戸田忠昌が城主となる。忠昌は同10年(1670)三の丸のみを残して本丸と二の丸を壊してしまった。世に「戸田の破壊」といわれる。なぜそんなことを???
城に維持費がかかり過ぎ、領民が過税を強いられるのを解消するのが目的。
同11年(1671)戸田氏が関東へ移ると、この地は再び天領となった。
【攻城記】
富岡城は石垣が新しい事もあって築城中のお城と言う雰囲気。
山城なれど石垣の規模は5万石以上の城を思わせる規模で、実質2万石少々と言われた天草には過ぎた城だと言える。
ちなみに石垣も場所によっては一部野積み、展望台のある場所など丸い河原の石を積んだ明らかに手抜きの石垣。
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