三原城 mihara-castle 広広島県三原市館町

天守台石垣と掘/船入櫓跡(左列) 天守台/水路的な堀跡(右列)


別名 玉壷城・浮城 築城年代 永禄10年(1567)
縄張・種別 ---/平城(海城) 築城者 小早川隆景
遺構 石垣・堀
復原 ---
国指定 史跡
攻城年月日 2003/12/8


【歴   史】
永禄10年(1567)毛利氏を支えた両川(吉川・小早川)のひとり小早川隆景が築城。
兄にあたる吉川元春が山陰地方で活躍したのに対し、隆景は瀬戸内海を中心に躍進。対外貿易にも従事した海賊衆である。三原城を拠点に山陽の海岸線を握り、九州から畿内にかけて情報収集も盛んに行った。
元亀2年(1571)父・毛利元就が死去し、毛利家跡継ぎの輝元はまだ幼い、小早川家の養子となっているものの隆景の責任は重大。対織田軍との戦いで多くを学び、活かし毛利水軍はますます強く、三原城も出動基地としての役割も重いものとなった。
天正10年(1582)織田信長が本能寺に倒れ豊臣秀吉の天下となると、取り込み政策が得意の秀吉は隆景に筑前(福岡県)一国を与えるといい出した。天下人に逆らえるわけもなく5年後には従ったが、今度は秀吉の甥・秀秋を養子に押しつけられた。隆景は秀秋に筑前を譲り、自分は手放さずにおいた三原城に戻る。
隆景没後、関ヶ原での功で徳川家康から備前・美作51万石を賜った秀秋だったが、2年後に若くして亡くなった。
三原城には関ヶ原合戦後福島正則の重臣が入り、元和5年(1619)に広島藩の家老・浅野忠吉が入城、以後250年間にわたり在城。

【攻城記】
別名「浮き城」と呼ばれた隆景の名城も埋め立てと本丸跡の鉄道施設による破壊と分断で見る影もありません。
水路として機能した城回りの堀も今では用水路の様です。(潮の満ち引きで堀の水が流れる様は本当に小川の様・・・)
天守台も半分削られ、城跡としてはかなり残酷な城跡です。

photo:ばつまるさん


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