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古今の英雄をご紹介


日蓮<nichiren>
□福岡県福岡市東区 東山公園
□貞応1−弘安5(1222-'82)
□鎌倉中期の僧 日蓮宗の開祖

安房国(千葉県)小湊の貧しい漁師の子として生まれた。12歳で近くの天台宗清澄寺へ登り、16歳で道善房を師として出家、鎌倉に4年間遊学の後、22歳で比叡山へ。建長5(1253)ごろ清澄寺へ帰省、「日蓮」と名乗った。同年4月28日、法華経の信仰を強く主張し日蓮宗(法華宗)を開宗。念仏者との間に深刻な対立がうまれ、翌年鎌倉に移り松葉ヶ谷に庵を結んだ。そのころの鎌倉は災害が続き、社会情勢の不安定であり、日蓮はこのような社会状況を仏教的に追究し、文応1('60)「立正安国論」を著わし、宿屋入道最信を通じて北条時頼に呈上した。このなかで、内乱と外寇を予言し、浄土宗を非難したので、浄土教徒の攻撃を受けて草庵を焼かれたり、捕らえられ伊豆へ流されたりした。
文永5('60)蒙古の国書が到来して蒙古の襲来が現実的なものなると、日蓮は予言が的中したとして再び「立正安国論」を幕府の要人に呈上しはじめた。このため'71平頼綱に捕らえられ、鎌倉龍ノ口の刑場で斬首されそうになったが、故あって佐渡へ流罪となる。'74赦されて鎌倉へ帰り、そこで頼綱と蒙古襲来のことについて論じたが、日蓮の意見はいれられず、鎌倉を去り甲斐国(山梨県)身延山に隠棲した。
photo:ばつまるさん
新田義貞<yoshisada nitta>
□東京都府中市分倍河原駅前
□正安3−暦応1・延元3(1301-1338)
□鎌倉末期から南北朝時代の武将

新田氏の祖は源義家の孫義重で源氏の嫡流であるが、北条氏と結び早くから京に進出していた足利氏に比べると小勢力だった。
元弘3(1333)後醍醐天皇により出された鎌倉幕府打倒の綸旨(りんじ)は、家名再興の好機であるとした義貞は上野・越後・武蔵などで兵を集め挙兵し一路鎌倉をめざして進み、北条高時以下一門を自刃させ幕府を滅亡させた。この鎌倉攻めに足利尊氏は4歳の長男義詮を名代として参戦させ、その<ま下>に馳せ参じた武士も多かったことで功名をめぐり、新田氏と足利氏は激しく対立。義貞は鎌倉を退いて上洛したが天皇の評価は低かった。天皇の新政は万事が公卿中心であり、建武2(1335)武士の不満がつのって尊氏が反旗をひるがえすと、天皇方は義貞を重用、尊氏追討の総大将に任命されたが、箱根竹の下の合戦に敗れ逃げ帰る。その後楠木正成ら諸将の協力を得て尊氏を九州へ敗走させた。延元1(1336)尊氏が大軍を率いて再び京に迫ると義貞・正成軍はこれを湊川で迎え討つが敗北、天皇は比叡山へと逃れた。裏で尊氏と和睦していた天皇は恒良親王に譲位すると、新帝に義貞をつけ北陸下向を命じた。新帝とともに苦戦の末、敦賀の金ヶ崎城に入城、新帝は捕らえられ京で毒殺されたが義貞は巻き返し、上洛を待ちわびる天皇の元へ向かう途中、福井の福島城攻略で戦死した。ああ、悲運のひと...。
photo:あられ
南部師行<moroyuki nanbu>
□青森県八戸市 八戸博物館前
□?−暦応1・延元3(?-1338)
□南北朝時代の武将

北畠顕家の陸奥赴任により配下となる。建武2(1335)顕家西上のとき、留まり東北の経営につとめ、曾我貞光の軍と戦う。延元2・建武4('37)顕家に従い京をうかがうが、翌年和泉国石津浜で高師直軍に敗れた。
photo:SPOOKさん
南部直房<naofusa nanbu>
□青森県八戸市内丸 三八(みやぎ)公園
□?
□八戸藩の藩祖

八戸城参照。
photo:SPOOKさん
二宮尊徳<sontoku ninomiya>
□富山県魚津市本町 大町小学校
□天明7−安政3(1787-1856)
□江戸後期の農政家

相模国足柄上郡栢山村出身。名は金次郎。
貧農の長男に生まれ、没落した一家再興のため荒地を開拓し、田畑を集め、足柄上郡きっての地主となる。農村の救済をはかり、さらに小田原藩主大久保家の家老服部家の家政改革、同大久保分家の知行地下野国桜町領のたて直し、以後豊富な農業知識をもとにして関東各地の自力更生につとめ、晩年には日光神領たて直し仕法の命をうけ、安政3(1856)その業半ばで没した。
photo:SPOOKさん
乃木希典<maresuke-nogi>静子=妻<shizuko>(上)
□山口県下関市 乃木神社
□嘉永2−大正1(1849-1912)
□明治時代の陸軍大臣 父=希次は長州藩士(下)

吉田松陰に心服し、叔父玉木文之進の門に入る。戊辰戦争には山県有朋らに従って幕兵と戦う。維新後、親兵として伏見に入営、奇兵隊脱退騒動に鎮撫として派せられた。明治4(1871)陸軍少佐。西南戦争で軍旗を失い、自決しようとしてとめられる。'86ドイツに留学して軍政、戦術を研究。一時退役して那須野で農耕生活を送るが、日清戦争に歩兵第1旅団長として出征。'69第3代台湾総督となるが、行政能力を発揮することができず同年辞任。日露戦争には第3軍司令官として出征。旅順攻略を指揮したが、要塞は容易に陥落せず指揮官を更迭された。要塞は児玉源太郎指揮官になってから陥落した。出征中に大将となり、戦後、軍事参議官を経て1907年学習院長となり、生来の精神主義を持って皇族子弟の教育にあたったが、'12明治天皇が没すると、妻静子とともに大葬の儀式当日自邸で殉死した。
photo:ばつまるさん
新渡戸稲造<inazo nitobe>
□岩手県盛岡市 市役所近くの「与の字橋」
□文久2−昭和8(1862-1933)
□明治・大正・昭和期の教育学者

盛岡藩勘定奉行新渡戸常訓の子として生まれる。明治10(1877)札幌農学校第二期生となる。同校卒業後、東大文学部選科生として入学、英文学・理財学・統計学を専攻、'84米国のジョンズ-ホプキンズ大学に留学。'87札幌農学校助教授となり、ドイツに留学。諸大学で農政学・農業経済学を学び、'91帰国。札幌農学校教授、台湾総督府技師、京大教授を経て、明治39−大正2(1906-13)一高校長。'14東大教授となり、植民政策講座を担任。'18東京女子大初代校長となる。'19-'26国際連盟事務次長。昭和8('33)カナダの太平洋調査会の国際会議に出席中病没。クエーカー教徒として、国際平和を主張し続けた。
有名著書に「武士道」「農業本論」がある。
photo:SPOOKさん
野口英世<hideyo noguchi>
□東京都台東区上野公園
□明治9−昭和3(1876-1928)
□明治・大正期の細菌学者

福島県出身で名は清作という。
明治29(1896)上京、高山歯科医学院の学僕・講師、順天堂医院の助手をへて、'98伝染病研究所の助手となる。細菌学の研究をはじめ、1900渡米、ペンシルベニア大の病理助手となり、'04ロックフェラー医学研究員となった。'11梅毒の病原体スピロヘータの純培養に成功、大正2('13)進行性麻痺及び脊椎癆(ろう)が梅毒性疾患であることを明らかにして、その名を世界の医学界に知られた。
'23帝国学士院会員となり、昭和3('28)西アフリカのアクラに赴いて黄熱病を研究中に感染して、その地で没した。
photo:SPOOKさん


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