河越館 kawagoe-yakata 埼玉県川越市上戸

入間川のほとりに建つ館跡の常楽寺(左上)/常楽寺の裏は城址の広大な敷地(右上)
関東管領山内上杉氏が築いた西北側の土塁が続く(下)


別名 --- 築城年代 平安時代末期
縄張・種別 ---/--- 築城者 河越氏
遺構 堀・土塁
復原 ---
国指定 史跡
攻城年月日 2005/7/1


【歴   史】
平安時代の終わりごろから南北時代の中ごろまでの≒200年の間、武蔵国で大きな勢力を誇った在地領主河越氏の居館跡。河越氏は、桓武平氏秩父氏の流れを汲む一族で、平安時代の終わりごろ、この辺りに館を構え、河越氏を名乗った。
治承4年(1180)、源頼朝が伊豆で挙兵すると、河越氏ははじめ敵対したが、後に御家人となって平氏討伐に参戦。このころの河越氏の勢力は、重頼の娘が頼朝の弟義経の妻に選ばれたことから推し量ることができる。ところが、後に義経と頼朝の仲たがいから、義経の縁者であることが禍して、重頼らは滅ぼされ、河越氏の勢力は一時衰えた。しかし鎌倉時代中ごろ、高野山に町石を寄進したことで知られる経重のころには、かつての勢力を回復していた。
鎌倉時代の後半になると、館の中に常楽寺が開山され、後に時宗15代尊恵が訪れ「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」と書かれた念仏算を配り大勢の人々で賑わうこともあったようだ。
応安元年(1368)、突然河越氏や高坂氏ら「平一揆」河越の館にたてこもって鎌倉幕府に反旗を翻すが、あえなく敗れてしまう。これ以降、河越氏は政治の表舞台からは姿を消した。
戦国時代になると、関東管領山内上杉氏が川越城の扇谷上杉氏に対抗するために、かつての河越館を含むこの周辺に陣所(上戸陣)を構えた。

photo:あられ


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