homereports on history 雑学・事件の検証etc...レポート
Cyushingura/The mystery and The truth/忠臣蔵の謎と真実

吉良邸/赤穂浪士討入りの現場
江戸城本丸にある「松の大廊下跡」の碑/吉良邸跡にある事件の絵

師走の頃になるとTV や映画などで演じられる忠臣蔵を 知らない日本人はほとんどいないだろう。
古くは 近松門左衛門の浄瑠璃、歌舞伎などさまざまなメディアで演じられてきたこの物語は、1701年 3月14日江戸城松の廊下で播磨赤穂城主浅野内匠頭長矩(ながのり)が 高家肝匙(きもいり)(旗本)であった吉良上野介義央 (よしなか)に突然斬りかかって傷を負わせた事件を発端として、その2年後旧浅野藩士が吉良邸に討ち入り吉良義央を殺害した事件を描いたドラマだ。
おそらく大部分の人が知っている忠臣蔵とは吉良が京都からの勅旨饗応役長矩に意地悪をし、それに腹を 立てた長矩が刃傷に及び、一方的に処罰をされた 旧浅野藩士が吉良を討って敵を取ったというストーリ だろう。
しかし、これは先に上げた近松門左衛門が描いた 仮名手本忠臣蔵の物語が史実として伝わったものであり、 そもそも事件がなぜ起こったのかからはじまって事実は ほとんどわかっていない。
本レポートは謎、そして疑問と思われる点を明らかに し、事件の真実を推理しようというものである。

1.長矩が接待を失敗しつづけたのはなぜか?
仮名手本忠臣蔵では、浅野からの謝礼が少ないことに腹を立てた吉良義央が意地悪くウソを教えたり、足を ひっぱたりした結果、恥をかかされた長矩が腹を立て殿中で刃傷に及んだということになっている。
しかし、長矩が接待役をおおせつかったのはこれが 初めてではない。
わずか17歳のとき、大石内蔵助の叔父である江戸家老の補佐、そして吉良義央に指導を仰ぎこの大役を大過なく こなしている。
にもかかわらず2度目の時に大きな失敗を繰り返してし まったのはなぜなのだろう?
1) 吉良義央がウソを教えた?
まず吉良家への託が少なかったのが事実だとして考えて みよう。
吉良家は高家筆頭で大名格の家柄だ。しかし実態はただの 旗本に過ぎず高々4000石の扶持で大名格の体面を保つ ために、その領地経営は火の車だっただろう。
したがって、儀典長として作法や儀礼を教えて受け取る その謝礼は重要な財政の一部になっていたはずだ。
また多少謝礼が少なかったとしても、それに遺恨を持ってウソを教えて浅野の評判を落とすようなことをしたとも 考え難い。
なぜなら、来年以降も別の大名に同じように指南をすることにより得られる謝礼を受け取るためには、どんなぼんくらであろうと失敗しないように指導しなくては、 自分の対面を保つことが出来ない。
第一浅野が失敗すればそれを指導した自分の責任問題にも なりかねないのだ。
そう、吉良家というコンサルタント会社にとって、浅野家は 良いお客さんだったわけである。
お客さんを大切にしない企業なんてありえない。
2) 失敗の原因は義央にある?
吉良義央に対する謝礼や、饗応の場での失敗の数々。
しかし、これらを実際に指揮指導したのは長矩ではない。
吉良家へ挨拶に行くにしても、両家の江戸家老どうしで あらかじめ手はずやお膳立てをし、長矩、義央の会談は 形式だけのはずだ。
これは、現在の会社同士の大型取引でもそうであるし、 国同士の交渉でもそうであり、江戸時代もまた同じ だったはずだ。
すなわち、このような実務レベルの管理と長矩の補佐は 江戸家老の責任だったはずだ。
私の疑問は江戸家老は何をしていたのか?に尽きる。
3) 江戸家老に対する考察
上述のように疑惑紛々の江戸家老であるが、考えられる 理由は二つ。
1. 本物の無能者説。
2. 意図的に長矩の足をひっぱた陰謀説。
2 はつい数年前 NHK 大河ドラマで扱われた元禄繚乱の 主張である。
私は本も読んでいなし、ドラマも見ていないが、江戸家老が 長矩の正妻あぐり姫に横恋慕をし、長矩の失墜をねらった というストーリーだったようである。
1. 2. いずれにしても、江戸家老は失敗を重ね、長矩に 対するその言い訳として、吉良義央にウソを教えられたと いう言い訳を繰り返したのではないだろうか?
そして長矩が切腹をした後、国許への報告書の中でも、 この主張をさらに膨らまし、義央がウソを教えさらに 浅野評判を貶める噂を振りまき、それに憤怒した長矩が 殿中で刃傷沙汰に及んだと主張したのでないだろうか?
その証拠といえるかどうかわからないが、この江戸家老は 討ち入りにも参加していない。
それどころか江戸を出奔 しているらしいのだ。

2. 殿中での刃傷沙汰の真実は?
歌舞伎や映画の中では吉良義央が、浅野長矩を足蹴に しながら、 「この田舎侍!」なんて言うシーンが描かれている。 そしてこれに我慢できなくなった長矩が、抜刀し吉良義央に 切りつけることになる。
しかしこれは本当だろうか?
吉良家は直参旗本、高家筆頭、肝匙(きもいり)の大名格。
さらに徳川家、上杉家、島津家との姻戚関係がある。
しかし、どんな肩書きがあろうとも、4200石の旗本に 過ぎない。
一方赤穂浅野家は、戦国大名浅野の分家であり 53500石 の大名だ。
格から言っても所領の大きさからも浅野家の方が はるかに上のはず。
松の廊下ですれ違うときも道を譲るのは、 吉良義央であって長矩ではない。
では刃傷沙汰はなぜ起きたのだろう?
吉良義央はもうすでにかなりの高齢である。
年寄りという ものは大体において小言が多くなる。(笑い)
そこで次のような仮説を考えてみた。
朝から朝廷の使者の饗応で失敗を繰り返す浅野長矩。
部下の江戸家老は失敗の原因が吉良義央だと主張する。
このときもうすでに、ぼんぼん育ちの長矩はストレスで 爆発寸前。
饗応役をほっぽらかして逐電してしまうという失態まで 演じてしまう。
さていよいよ饗応が始まろうとしている朝。
いよいよ 事件現場松の廊下である。
松の廊下を義央と同僚が歩いている。
向こうからは本日の もう一人の主役である、浅野長矩が歩いてくる。
長矩は 江戸家老から嘘八百吹き込まれているから、吉良義央に対する態度もかなり硬直した物だったはずだ。
饗応役の指南役である義央に対する態度としては礼を失してたはずだが、度を外れていたとも思われない。
一方、まさか長矩が嘘八百吹き込まれているとも思わない義央は、同僚に対して、
「最近の若い侍は礼儀を知らない ものが多くて困りますな」
と、あくまでも世間一般の話として話かけた。
そう今でも中年以上の年になると思わず口に出るあの セリフである。(笑い)
一方ストレスで押しつぶされそうになっていた長矩は、 このセリフを聞きつけ完全にぶち切れてしまい、吉良義央に 切りかかったと考えることは出来ないだろうか?
長矩は7歳で家督を継いだボンボンである。
こらえ性が なかったのだろう。

3.幕府の赤穂浅野家と吉良家に対する処罰の違いに対する謎
松の廊下での事件後直ちに長矩は捕縛され、さらに即日切腹。
そして、赤穂浅野家は取り潰しになる。
一方吉良家に対しては何のお咎めもなし。
これが赤穂旧藩士の不満が募り、後々吉良邸への討ち入りの 原因となる。
確かに吉良家への直接の咎めはなかったのだが、上野之介義央は、 高家筆頭肝匙の職を辞している。
理由は伝わってはいないが、 饗応役指南の職を全うしなかったことに対して責任を取ったと 考えることが出来る。 このことから考えて、幕府が浅野家に対して下した処罰は...
1. 饗応役を十分に全うすることが出来ず、幕府の面目をつぶした。
2. 饗応役を途中で投げ出し逐電した。
3. 指南役の義央に対して逆恨みをし切り付けた。

ことに対するもので、殿中で抜刀したことが原因ではなかった ようである。
実際に殿中で抜刀したにもかかわらず不問に 付された侍もいる。
このため浅野家には厳罰が下され、吉良家は不問に付されたのであろう。

4.浅野家があっさりと取り潰されたわけ
これには二つの理由が重なったためと考えられる。
1) 乱心に対しては厳罰を江戸幕府は封建領主の乱心についてはこれまでも厳しい態度を 取って来ている。
小早川秀秋、池田輝興いずれも取り潰しになっている。
皮肉なことに池田家取り潰しの跡、常陸笠間から入国したのが 長矩のおじいさん長直。
そしてその三代目がまたしても乱心。
偶然とは言え不思議である。
2) 赤穂浅野家の生い立ちが災いした。
赤穂浅野家は浅野本家の戦国大名の浅野長政 (豊臣秀吉の妻おねの兄弟)が引退し隠居する際に、 その隠居の賄いとして10,000 石の石高で常陸笠間を 徳川家康が所領として与えたのが始まりである。
その後長政の三男が笠間藩を相続し、二代目の長直のとき 先に述べた池田輝興の乱心により、53,000 石に加領 して赤穂に移封して来たものである。
本家の浅野家は広島に合計456,000 石を持つ大大名だ。
したがって幕府としては隠居屋として与えた領地を そのまま安堵してきたが、長矩の乱心を口実に領地を 取り上げたという意識が働いたことも考えられる。

5.大石内蔵助の心情
大石内蔵助は浅野内匠頭長矩が切腹した後、その弟 浅野大学を立てて赤穂浅野家を存続させようと、浅野本家、 幕府へ積極的に働きかけている。
社長亡き後の重役としては当然のことだろう。 しかし願いかなわず、赤穂浅野家は取り潰しが確定して しまう。
さてこのような場合次に考えるのは、失業した家臣団の 処遇である。
知り合いの家老を通じて、他家へどの位家臣団が再雇用されるかを考えていたはずだ。
また城を明渡すに際して、城の最高責任者である内蔵助は立つ鳥後を濁さずの例に倣うわけではないが、いかに スムースに城を明渡すかがその脳みその大半を占める悩み事だったに違いない。
またおそらく、長矩の失態の本当の原因も薄々気づいていたのだろう。
したがってこの時点で内蔵助の脳裏には討ち入りだの 敵討ちだのという考えはまったくない。
結局討ち入りを決めた 150名近い家臣団の血判状に自らも血判を押したのは、とりあえず家臣団の暴走を治めるための 方便だったと想像している。
その後内蔵助は京都で豪遊し、これを幕府の目をくらます ためと映画・小説・歌舞伎では描かれているが、これも 出来ることなら討ち入りをしたくない。
時間が経てば 家臣団の団結も崩れ、一人・二人と落伍していくだろう。 と考えたのではないだろうか?
2年経ち討ち入りに参加したのは結局 47人に過ぎなかったことがその裏づけだ。
そう 100人近い人間が脱落しているのだ。

6.堀部安兵衛の行動の謎
まず堀部安兵衛の生い立ちを紹介しておこう。
堀部安兵衛は、元は新潟新発田藩の藩士中山弥次衛門の 息子であり、父親が隅廓で起こした失火が原因で取り 潰し、浪人になり御家再興のために江戸に出てきた。
安兵衛17歳のことである。 そこで知り合いになり叔父・甥の契りを結んだ菅野六左衛門が 高田馬場で決闘に及ぶにあたり助太刀をし、めまぐるしい 活躍をしたのを、赤穂浅野の家臣堀部弥兵衛金丸に見初め られ養子になった。
安兵衛は養子入りする際に、中山家の再興を条件につけている。
赤穂事件の8年前の出来事だ。 この高田馬場の決闘についても面白い話があるのだが、 本レポートとは本題がずれるのでまたの機会にしよう。
纏めると安兵衛は中山家の再興が真の目的であったは ずだ。
この彼の生い立ちを前提に彼の心理を分析すると、理解不能な矛盾にぶつかる。
赤穂浅野家の取り潰しが決まったときにも、安兵衛の頭の 大半を占めていたのは、”また浪人に逆戻り。
さて中山家 再興のためには次はどうしよう?”ということであり、あだ討ちだの討ち入りだのという心境ではなかったはずだ。
ところが現在にも残されている彼と大石内蔵助との手紙のやり取りを纏めた堀部武庸筆記では、彼は討ち入りの急先鋒に なっているのだ。この理由を分析してみよう。
1) プライドの塊
侍は多かれ少なかれプライドで行動基準を決めているところがある。
特に彼は、幼少のときに中山家が取り潰され長い浪人時代を すごして苦労をしている。
せっかく手にした仕官先を 失ったのだから、その元凶と信じるにたる(少なくとも 赤穂の浪人にはそのように見えた)吉良を討とうとしたのか?
2) おだてに乗り易い性格
有名な高田馬場の決闘の経験者。
事実はともかくとして とりあえず人を切ったことのあるのは赤穂藩士広と言えども 安兵衛ただ一人。(実際には高田馬場では、大刀に手を掛け 今にも抜き放しそうな、赤だこ安兵衛を見た相手が恐れを為して逃げ散ったというのが真実) 討ち入り急進派の若い侍に相談されたとき、”イヤ”とは いえなくなったのだろう。
3) 義理人情の人
またまた高田馬場の決闘に戻ろう。
この決闘で助太刀を した相手は菅野六左衛門。
彼とはたまたま一緒になった居酒屋で意気投合し、叔父・甥の固めの杯を交わした間柄であり血のつながりはない。
いくら義理人情が重要しされた江戸時代とはいえ、命を 掛けて決闘の助太刀をするような相手ではない。
六左衛門もそのことを承知していて、決闘当日に安兵衛に は女中を通じて手紙で知らせただけであった。(このとき彼は二日酔いでくたばっていたらしい。笑い)
昼過ぎ目を 覚ますと勝手口に菅野六左衛門の手紙を発見する。
それ から講談や落語で有名な高田馬場へのかけっこが始まる。(爆笑)
さて赤穂浪士四七士の中に安兵衛の義理の父、堀部弥兵衛金丸の名前もある。
下級武士の堀部弥兵衛金丸が討ち入りに参加するのに安兵衛が不参加というわけにも行かなかっただろう。
そして最後に安兵衛は自己陶酔型の性格の持ち主であり、ひとたび討ち入りと決まったら自ら、自分の気分を高揚 させて行った結果、堀部武庸筆記にあるような手紙の記述になったものと想像できる。

7.吉良邸で応戦した侍の数
吉良邸で旧赤穂藩士と応戦したのは70人強。
うち命が 助かったのは2人くらいのはずだ。
大きな江戸屋敷に 詰めている侍の数としては少なすぎる。
当時の武家屋敷の塀は二重構造になっており、その内側に下級武士は住まいをあてがわれていた。
言うなれば 生きた防御壁である。
そこで城内に忍び込んだ旧赤穂藩士は、この武家長屋の 出入り口にかんぬきを素早く掛け、戦闘に参加できない ようにしてしまった。
結局長屋の中に閉じ込められた200名近い侍は戦闘に参加することもなく、外で何が起こっているのかも わからぬまま朝を迎えたというていたらくだったのだ。

8.隣家では何をしていたか?
これが一番笑える話かもしれない。江戸市内ではすでに旧赤穂藩士が吉良邸へ討ち入りするかもしれないという のは、かなり噂になっていたらしい。
そこで隣では、なんと物見台を屋敷の境界近くに作り、そこで酒を飲みながら見物していたというのだ。(爆笑)
しかも、自分のところが争いに巻き込まれるのを避ける ために、庭内に完全武装をした兵士を配置するという 念の入れようだ。
さらに吉良邸から逃げてくる吉良藩士を、槍で追い返す というおまけつき!(大爆笑)
”潔く戦って散りなされ!”
てなことを言ったらしい。
もうここまで来ると、忠臣蔵は美談ではなくコメディーの世界である。

9.なぜ赤穂浪士は切腹させられたのか?
これは江戸幕府のニ重支配体制が原因である。
赤穂浪士は自分の主君長矩に対しては忠義を果たした。
しかし、侍は主君への忠義を通して幕府への忠誠を求められている。
江戸の町で許可なく兵を動かし私闘を 演じたのだから、赤穂浪士の行動は幕府に対しては不忠義である。
したがって本来なら、打ち首獄門という最悪の厳罰が下されても仕方がない。
しかし、幕府は名誉ある切腹と いう結論を下した。
これは当時の江戸幕府のバランス 感覚ではギリギリの妥協だったのだろう。
一方吉良家は、討ち入りに参加した赤穂浪士よりはるかに 多い侍を擁していながら、主君吉良上野之介義央を殺害 されており、武士としての本分を果たさなかったとして結局取り潰しになっている。
この辺りも抜群のバランス 感覚として評価できる。

以上の分析はほんのちょっとしたきっかけから始まった。
私の会社の近くに、中山安兵衛が住んでいた長屋跡 (亀島川のほとりで、住環境のよい場所ではない。笑い)が ある。
中山安兵衛といえば高田馬場と赤穂浪士。
興味を持って インターネットなどを調べているうちに、次々と忠臣蔵に ついて謎が生まれてきた。
そしてそれに対する私なりの解釈を加えたものである。

注意して欲しいのは、忠臣蔵、赤穂浪士、赤穂事件に ついての公文書の類はまったく残っていない。
唯一の 資料が堀部武庸筆記である。
今までさまざまな人がいろいろな解釈を加えているが、 いずれも決定版といえるものはない。
私の推理もその 一つに過ぎないということをお忘れなく。(汗)
了。

report photo:荒賀源外さん
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