足利氏館 _鑁阿(ばんな)寺
ashikaga-yakata
栃木県足利市家冨町 2220

山門/堀と太鼓橋/校倉造りの大黒堂/御霊屋/多宝塔/鐘楼(左列)
薬医門/大酉堂/経堂/大御堂/本堂/西門(右列)

楼門(山門)
建久7年(1196)、開祖・足利義兼の創建といわれる。室町時代兵火にあい、現在の建物は永禄7年(1564)足利幕府13代将軍・義輝の再建である。義輝は源氏の棟梁としては鎌倉幕府・源頼朝以来の優秀な将軍といわれたが世はまさに下克上、最も信頼していた部下の松永久秀の謀反で翌永禄8年に殺されてしまった。
北門(薬医門)
開祖・義兼の子、義氏は父の建てた鑁阿寺維持のため、堀の外に12の支院(塔中十二坊)を鎌倉時代に建て、その筆頭(塔頭)を千手院とした。この門は弘化2年(1845)に再建、大正時代この寺に移築したもの。薬医門としては規模が大きく、典型的な江戸末期の形式。
校倉(大黒堂)
永享4年(1432)公文所奉行の創建と伝えられるが、現存の建物は宝暦2年(1752)の再建。様式は校倉風で北関東では優美な造りである。元来宝物を収容した収蔵庫だがのちに大黒天が祀られ、足利七福神の元祖となった。
大酉堂(おとり様)
足利尊氏を祀るお堂として、室町時代に建立された。寛政2年(1790)及び明治5年の伽藍配置図には「足利尊氏公霊屋」と記されている。明治の中頃甲冑姿の尊氏木像を本坊に移し、当山伝来の大酉大権現を本尊とした。大酉大権現は俗に「おとり様」といい、古来武人として武門の信仰が篤く、ことに東国では近世より商売繁盛、福の神として信仰されている。
御霊屋
足利大権現と称し、俗に赤御堂ともいう。正和年間(1312〜1316)伽藍配置図には境内の西北側に描かれている。創建は鎌倉時代といわれるが、現在の建物は徳川11代将軍家斉の寄進により再建された。本殿に源氏の祖を祀り、拝殿に足利15代将軍像を祀る。奥に源氏の祖・八幡太郎源義家の子、義国とその子・義康(足利氏の祖)の墓がある。
経蔵(一切経堂)
伝えられるところによると、開祖・義兼の創建となっているが、現存の経蔵は応永14年(1407)関東管領・足利満兼によって再建された。経蔵は真言宗や天台宗の大寺にはよくあるがこれだけ大きな建物は珍しいという。堂内に八角の輪蔵(経棚)があり一切経2千余巻を蔵す。輪蔵、回してみました。(^_^;)本瓦葺、重層宝形造り、上層の屋根の扇垂木の手法は極めて複雑。
多宝塔(塔婆)
義兼の創建と伝えられ、現在の建物は江戸時代の元禄5年(1692)徳川5代将軍綱吉の生母・桂昌院尼の再建したといわれていたが、相輪の宝珠を調査したところ、寛永6年(1629)銘のものが発見され塔の再建年代がさかのぼることが判明した。徳川氏は新田氏の後裔と称し、新田氏は足利の庄より分家したので祖先発祥の地とし宝塔を祖先の菩提供養のために再建寄進した。重層、銅板葺、頂上に九輪が立ち水煙がのっている。
大御堂(本堂)
義兼の建立で、本尊は大日如来。方10間・100坪、本瓦葺、唐様に和様を加えた鎌倉時代の代表的な建物。
鐘楼
義兼が本堂に次いで創建。本瓦葺、入母屋造りで袴腰附、桁行3間・梁間2間、鎌倉時代の飾りけのない禅宗建築の代表的なものといわれる。
西門・東門
義兼創建。
永享4年(1432)公文所奉行の再修。本瓦葺、切妻造りの四脚門で間口2間・奥行1間2尺、鎌倉期の武家造り。


別名 鑁阿(ばんな)寺・館 築城年代 平安末期
縄張・種別 方形館/平城 築城者 足利義兼
遺構 堂塔伽藍 etc・堀・土塁
復原 ---
国指定 史跡 国宝=大御堂・鐘楼 重文=経蔵(一切経堂) etc
攻城年月日 2003/10/13


【構   え】
足利市の中央に位置し境内地40,467u(1万2千300坪)。
周囲に濠と土塁をめぐらした寺域は、鎌倉時代の豪族居館の面影を伝える。

【歴   史】
承暦年間(1077〜1080)足利源氏は源義家が下野守として足利に別業を構えたときに始まった。
義家の三男・義国、その長男が義重といい新田氏の祖で、二男・義康が足利庄(旧梁田郡一帯)を伝領され足利の祖となった。
足利氏2代目の義兼が建久7年(1196)館の中に持仏堂を建て、守り本尊の大日如来を祀ったのが鑁阿寺のはじまりといわれる。
開祖・義兼は義康の三男で母は熱田大宮司秀範の娘であり、姉は源頼朝の母である。
義兼と頼朝は従弟にあたり、鎌倉幕府創建に大いに尽力する。
義兼6世の孫・足利尊氏は暦応元年(1338)京都室町に足利幕府を開き征夷大将軍となる。
2代将軍・義詮、3代義満(金閣寺開祖)以下足利幕府15代は京洛に絢爛豪華な文化の花をさかせた。
鎌倉・室町時代には、足利氏の氏寺として手厚く保護されたという。

photo:あられ


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