本戸城 hondo-castle 熊本県本渡市本戸馬場町

天草切支丹館
キリシタンの歴史をいまに伝える≒600点もの遺物が展示される。
「天草・島原の乱」で天草四郎が掲げたといわれる陣中旗(重文)とうがある。

城址の碑/館の背後にある木山弾正社(左列)
本丸跡/天草切支丹館(右)


別名 本渡城 築城年代 永禄年間(1558〜69)
縄張・種別 ---/山城 築城者 天草尚種
遺構 曲輪跡 etc
復原 ---
国指定 ---
攻城年月日 2004/4/11


【歴   史】
鎌倉時代のはじめには地頭職で、この地に勢力を誇った天草氏であったが、後期から室町時代後期にかけては志岐氏の支配下に置かれ天草本家は絶えてしまう。
永禄年間(1558〜69)城は支流の河内浦氏が「天草」を名乗り、領土を回復、尚種が築城した。その後、肥後を支配していた大友氏の勢力は衰え、種元は島津氏に従って転戦。
天正15年(1587)豊臣秀吉の九州征伐の際に服属し領土を安堵されたものの、本戸は佐々成政や小西行長の支配下に置かれ、種元は代官職に就いた。
同17年(1589)志岐麟仙らと反乱を起こしたが、間もなく、加藤・小西・有馬・大村連合軍の総攻撃を受け落城。天草氏は小西氏の与力となり、また関ヶ原合戦では小早川秀秋の家臣となった。小早川氏改易で天草氏も滅んでしまった。
寛永14年(1638)島原の乱では唐津寺沢藩城代の三宅藤兵衛が本陣とした。天草四郎を盟主と仰ぐキリシタン勢の猛攻撃により全滅。

【資   料】
-木山弾正社の由来-
南北朝時代に新田左京太夫備後守貞昌が正平12年(1357)征西大将軍・懐良親王に従い九州に下向。
菊地氏と共に大友氏と戦い、平定後に孫の左近太夫惟政が阿蘇家の客将に迎えられ、肥後・益城(ましき)に木山郷をつくり木山姓に改め、代々城主となった。
天文13年(1544)木山城主・木山弾正惟久は島津氏に攻められ落城、惟久は天草種元の外父の縁で本戸城客将に迎えられる。
天正17年(1589)天草合戦に及び、惟久は手勢500を引き連れ、加藤清正軍を志岐麟仙とともに佛木坂で向かえ、清正と一騎打ちをして戦死、このとき惟久の嫡男・傳九郎も討ち死にした。惟久の義勇を慕ったひとびとにより祀られたという。

【攻城記】
本丸跡に天草切支丹館があり、城の面影無し。木山弾正社は肥後益城の赤井城から追われた木山弾正が、嫁さんの里を頼り客将として天草本渡に入ったものの安息の日々は長く続かず、天草に攻め入って来た加藤清正に討たれた木山弾正を祀ったもの。

photo:ばつまるさん


Back
Home